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「先住民族に反抗期は無い」 反抗期は、現代社会がつくりだしたもの

11.25.2013 · Posted in 社会

今日のFacebookに長尾氏と内海氏の、「反抗期」についての投稿があり、先住民族にも野生動物にも反抗期がないということだった。つまり、生物として反抗期があること自体が不自然なことなのだ。

今の日本を含めた西洋的発想の国は、反抗期は大人になるための親と自分を分別する重要な時期というふうに定義しているが、実際には反抗期と名付けて大人のコントロール下におき、子どもの能力を正確に測るのを良しとしない社会システムなのだということなのだ。

先住民族は早くから親が子どもに仕事を教え、きちんと自然のなかで生きる術を伝授すれば、それを覚えて1人の大人として自立する。それが14,15歳頃。日本や西洋では、反抗期どまんなかだ。

西洋文明では集団というなかで子どもを育てコミュニティという他人との輪のなかで、常識やらしがらみやらでがんじがらめにして、自立させようとしていないのである。そのうえ、他人の多い集団にいれてしまうと、親がきちんと子どもの能力を判断する機会を失う。そして、複数の他人からの評価を得て、子どもが自立したかどうかを確認するハメになる。

だから年齢だけ大人になっても人の能力を見極められないし大人ばかりだし、自立もできずに何かに依存しっぱなしの人が多いわけだ。この社会システムだから、自立できなくて、すぐに依存したがる人間ばかりになるのに納得してしまった。

いったい、こんな社会システムに、どんなメリットがあるのか?
どうみたって個人にはメリットがないように思う。

ということは、世界を動かすある特定の少数の人間が、人を動かしやすくするためにできた社会システムなのだろう。人をコントロールしやすい社会。それに簡単に惑わされてはいけない。

 

長尾周格氏の「反抗期」

以前ある人が全国で講演会をたくさん行っている某内科医の講演を聴きに行った時、「先住民族に反抗期は無い」という話を聞いて、えらく感銘したとFBに書いていました。僕はその文章を読んで、この人は講演会をちゃんと聞いていたことに感心し、さらに家に帰ってくるまで内容を覚えていたことに感銘を受けました。

普段から先住民族のことを詳しく知っているフリをしている僕ですが、先住民族に反抗期が無いという記述を本で読んだことはありません。実際に会って確かめようにも、先住民族を見たことも会ったこともないので、確かめようがありません。ですから反抗期が有るか無いか、とても気になりました。

翻って自分の反抗期を思い出そうとしましたが、僕自身に反抗期が有った記憶がありません。だから僕には反抗期は無かったんだと思います。ただ、中学生のころ、やたらと親が僕に反抗するようになったことは、よく覚えています。一般的にいわれる反抗期よりも、僕の親はずいぶん遅くなってから反抗期が訪れたようです。

先住民族の子供は、早ければ5歳くらいで男の子は父親の狩猟についていくようになり、10歳までには一人でも狩猟を行えるようになります。また女の子も5歳くらいから母親の採集や農耕を手伝ったり、料理を手伝うようになります。そして一人前の仕事がこなせるようになれば、一人前として扱われるようになります。そこは年齢ではなく、能力で評価されるのです。

日本人が中学生となる12~15歳の時点では、先住民族では男も女も大人と同じ扱いを受け、また大人と同じ責任を負います。そうやって能力によって判断されることが、反抗期が無いと考えられている所以ではないだろうかと思われます。

一方日本人は中学生はおろか、高校生になっても通常は親から自立して、自分の力で生きていくことはできず、親の庇護の元に暮らさねばなりません。自立できるような身体的及び知能的成熟を持っていたとしても、社会システムが自立を著しく困難にしているのです。ですから身体的および知能的成熟があるにもかかわらず、自立することもできなければ自己を正当に評価してもらえる機会も無い、ということに反抗するというのが反抗期なのではと思います。

また先住民族にとって親とは、この世界で生きていくための知恵を授けてくれる教師でもあるのに対し、現代の日本人にとっての親とは、単に家の中で威張り散らしたり、小言を言う存在でしかありません(少なくとも僕の育った家庭では)。鹿や熊の狩の仕方を教えてくれるわけでもなければ、食べられる野草やきのこの知識を授けてくれるわけでもありません。学校での勉強だって、今すぐに役立つ知識を教えてくれるわけではなく、むしろ集団生活の理不尽さをいやというほど思い知らされる場所でしかありません(少なくとも僕においては)。

こんな世の中では、僕が中学時代に盗んだバイクで走り出したり、夜の校舎窓ガラス壊して回ったりしなかったのが不思議なくらいです。先住民族の生き方は、僕に様々なことを教えてくれますが、もっと多くの人にも知ってもらいたいことがたくさんあります。特に反抗期真っ盛りの親の方々には、よく知ってもらいたいと切に願います。

内海聡氏のFacebook

さとう・シュークリ・ながおの記事に反抗期に関して書いているので、連動して書いてみます。興味ある方はぜひ両方読んでいただければと思う次第です♪。

私が先日の三島講演で「先住民族に反抗期は無い」といったのですが、これには一応補足が必要でしょう。実はあの記事がさとうながおが自分自身に限界点を設けているんだよ、とよく私が言っていることと符合するのですが、それも踏まえて書きましょう。彼は先住民族のことに詳しいしよく本も読んでいるようですが、やはりその考えには「どの本に書いているか?」ということと、「どこに根拠があるか?」を考えていることが難点なのです。彼ほどに知識があればあとは直感と道理に頼る方が早いのです。

先住民族の子供が狩猟を含めさまざまなことを親に教わることは、彼の記事に書いていますがこれは間違いないでしょう。そしてそこから先は想像力が大事なのです。私が講演で先住民族に反抗期はないと言いましたが、その前に「先住民族に反抗期なんぞあるわけがない」と言っています。さらにいえば野生動物に反抗期なんぞないと言った覚えもあります。妄想や記憶違いだったらすいませんが♪。

先住民族のことを勉強して想像できるのは、彼ら先住民族は少ない人数の中でコミュニティを保ち、自然への畏敬が強く、ケンカがケンカ以上になることは自分の死も意味するであろうこと、そして彼らの常識の中では「反抗期」などという観念がないということです。つまり私自身、自分の子供が逆らっても「反抗期」だとさえ思わないということです。この反抗期も現代心理学や精神学が生み出したものであり、後世的な宗教学が生み出したものでもあります。そもそもそのような発想がないのです。なぜなら彼らは一個の大人であると同時に、全体が一つの強固な家族だからです。

個々の考えが異なるのはどんな先住民族でもあるでしょう。しかしそれは一定以上の衝突とはなりえませんし、なってしまうならその部族は滅びへの道をたどるのみです。野生の動物にも反抗期はなく、仮に動物に排外がある場合は遺伝子的に組み込まれたもの(つまり全例がそうする)が多いです。さらにいえばこれは現代的な人でも適応することができ、たとえば自然農の人たち、たとえば自然崇拝の人たち(もちろん本物限定)に幾人か話を聞いたとき、一人も反抗期を持つ子供がいないことに驚きました。これは統計的には少ないかもしれませんが、これが重なり合えばもう私としては十分だと思えたのです。子供が真の自我をもつから起こり得ることでしかありません。

つまり、私の講演内容はどこにも書いてないしどの識者が示したものでもありませんが、私は「先住民族に反抗期は無い」ということを確信をもって示せます。もしそうでなかったのなら間違っていたと謝ればいいことであり、この世界で重要なのは根拠や記録ではありません。それらはすべて末端のヒントにしかすぎず、そこから得られる己の道理や考えがどこを向き、何を目的とし、どこにたどり着くかのほうが大事であり、そのためには科学的概念や根拠や記録だけではなく、直観や本能や子供心が大事なのです。

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