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JAL123便墜落事故の真相

01.08.2014 · Posted in 社会

1985年8月12日に起きた、JAL123便墜落事故は、乗員乗客512名のうち、生存者4名を残し、すべて亡くなったが、事故原因など謎が多い。機体が行方不明になってから発見するまでも時間がかかりすぎており、それには何か国家機密的なウラがあるといわれ、自衛隊員の誤爆や米軍の演習などいろいろな説が囁かれている。

このサイトには、墜落原因や墜落直後には多くの生存者がいたのに、その生存者達が焼き殺されたことなどが、数々の証言とともに記載されている。

国家の都合で軽々しく命を扱われる国民。すでにマスコミの偏った情報操作で、日本人は間違った情報を信じこまされている可能性が高いが、秘密保全法が施行されれば、ネット上の情報さえもアクセスできなくなる危険性がある。

 
 

●JAL123便墜落事故の真相① 助かるべき多くの生存者が情け容赦なく殺された
http://blog.livedoor.jp/ijn9266/archives/4121599.html

(一部抜粋)

TV新聞報道では、助かった4人以外に少なくとも生存者が3人、合計7人の生存者がいた(この日本経済新聞の記事は日航パーサー落合由美さんを忘れている。従って8人が正しい。)。しかし、4人は報道直後突然失踪!彼らは一体どこへ消えたのか!?(「世界の真実の姿を求めて!」〜日航機123便事故当時の日経記事「生存者の内1人は少年らしい。」より)

さらに最低50人くらいの生存者が墜落現場にいた、指先が1本ちぎれただけの男の人もいた、と、まだ夜も明けやらぬ現場に駆けつけた若者は証言!生存者達も同様、墜落現場では多くの人達が助けを呼んでいたと証言。

(中略)

☆元日航職員佐宗邦皇(さそう・くにお)氏の証言(動画開始後2分10秒辺りから):JAL123は小型中性子核ミサイルによって撃墜された

元日航職員佐宗邦皇(さそう・くにお)氏の証言(動画開始後2分10秒辺りから):JAL123は小型中性子核ミサイルによって撃墜された
貝 のように口を閉ざす日航関係者の中にあって、佐宗氏は自らこのJAL123便墜落事故の調査を行い真実を発信する大変貴重な存在だった。2009年8月9 日午前11時突然帰らぬ人となるまで、その活動は続いた。享年59歳。亡くなる前日のワールド・フォーラム(前述の動画はその開始部分)で「天皇の金塊」 著者高橋五郎氏の講演に続き自身が登壇、用意された「おーいお茶」500mlボトルに口をつけて1分以内に椅子から崩れ落ちる。最前列の聴講者が機転を利 かし、素早くそのボトルを確保して遺族に提出。不審な数人の男達が飛び出し、同じくそのボトルを確保しようとしたが得られず、凄い形相でその聴講者を睨み つけたという。(コメント38参照)

(中略)

今年も8月12日、日航123便墜落事故の日が巡って来る。この事件は16年後に起こる、911事件と似通っている。列挙してみると。

① 明らかに素人でも分かる嘘をつき、国家ぐるみで真実を隠蔽しようとする。例:圧力隔壁破壊の嘘。
② 軍事演習の最中で起こった、核兵器使用の痕跡を残す、尋常ならざる破壊の跡と情け容赦ない乗客殺害部隊。
③ メディア総動員による撹乱。大衆を真実から遠ざけようとする、超国家的権力の存在。
④ 以後の世界的変化。

まず①の「明らかに素人でも分かる嘘」について。

上 空8000mで機体に大きな穴が空けば、他の航空機事故に見られるように、機内に急減圧が発生。機内の物は人間を含み外へ吸い出される。空気が薄くなるこ とから、実験では5分くらいで一般人なら意識を失う危険な状態に陥る。しかし、生存者の落合由美さんの証言ではそんな事態は起こらなかった。という訳で事 故調査委員会の公式発表「圧力隔壁破壊」は子供でも「嘘」とすぐ分かる。
http://www.goennet.ne.jp/~hohri/n-ochiai.htm

(中略)

18:24:35 ドーンという衝撃音と共に何かが123便の尾翼部に激突。座席中央部分の最後部から5番目に座っていた小川哲氏(当時41歳)はその飛行物体を接近段階から撮影、後に事故現場で発見され現像。デジタル解析の結果、オレンジ色の物体と判明。

18:56過ぎ、123便はレーダーから消える。しかし、場所についての報道は二転三転し、123便の行方は特定されない。翌日明け方になるまで救助活動が開始されず搭乗者の家族は焦燥感が募る。

8 月13日の午前5時10分、航空自衛隊救難隊による「機体発見」、続く陸上自衛隊偵察ヘリによる機体確認、5時37分の長野県警ヘリによる墜落現場の確認 と、各自衛隊や警察のヘリによって次々と墜落現場の状況が確認される。群馬県上野村の黒沢丈夫村長(当時)は、テレビ報道の映像を見て、現場が村内の「ス ゲノ沢」であると判断。土地勘のある消防団員に捜索隊の道案内をするよう要請。

墜落からおよそ14時間が過ぎた午前8時半、長野県警機 動隊員2名がヘリコプターから現場付近にラペリング降下。その後陸上自衛隊第一空挺団の隊員が現場に降下して救難活動を開始。陸路からは、上野村消防団、 群馬県警機動隊、警視庁機動隊、陸上自衛隊、多野藤岡広域消防本部藤岡消防署の救助隊が現場に到着。ようやく本格的な救難活動が開始される。

縦 割り組織警察の常識を無視して「全員死亡による救助打ち切り命令」で動けない群馬県警管轄地域へ越境進入したのは長野県警レスキュー隊。また、早々と現場 で「全員即死宣言」をした自衛隊幹部に「まだ生存者がいるぞ!!」と怒鳴って救助活動を促した報道関係者や消防団員の人達。彼等がいなければ、落合由美さ ん達女性4人も助かっていなかっただろう。

「現場にいたある消防団員は『最初は医師・看護婦は現地に送り込まれていなかった。生存者が発見されてから急にあわてた。生存者に対する準備ができていなかったような気がする』と話していた。はじめから生存者がいないと決めてかかっていたのではないかと私も感じた」(元日航パイロット藤田日出男著「隠された証言・日航123便墜落事故p.56、8行目)

「11時生存者発見、12時仮設ヘリポートへ、ヘリポートで1時間30分以上待たされ14時15分ごろやっと病院へ搬入」(元日航パイロット藤田日出男著「隠された証言・日航123便墜落事故p.55、2行目)…せっかく発見され一刻を争う救命処置が求められる生存者を現場に2時間近く放置、病院搬入まで3時間以上も費やしている。まるで生き延びてもらっては困るかのように。

 

(中略)

 

乗員乗客殺害部隊の存在

8 月13日04:00頃 墜落翌日まだ夜も明けぬ早朝、白バイを振り切って、長野県からオフロードバイクと徒歩で駆けつけた若者達2人。生存者の呻き声が谷 にこだまし、響き渡っているのをはっきりと聴いた。およそ50人と推測。指が欠損しただけの、比較的軽症の人も。この人は助かる、と確信。既に到着してい た100名くらいの自衛隊員。片手に抜き身の大型アーミーナイフ、目には暗視ゴーグル、また、靴は急峻な山での作業に適した短靴。1時間後、次の部隊が 続々と到着。後から来た部隊は山で歩きにくいブーツ着用。(「救助に向かう自衛隊 は武器を携行しない。もし携行するとすればその手続きは煩雑で必ず証拠が残って居る。その証拠が出ていない以上、このサイトに書いてあることは悪質な作り 話である」という書き込みがこのサイトにあった。その人は自衛隊関係者で実際の武器携行手続の経験から言っているのかもしれないが、世界の厳しい現実を知 らないおめでたい人、という他無い。「答えてみろ、この嘘つき野郎!オレが怖いのか?オイコラ!」と余りに礼儀を欠くチンピラのような調子だったので削 除。)

しかし、彼等は一向に生存者の手当をしようとはしない。大きな袋に何かを集めて入れる作業を黙々と続け、上空でヘリ コプターがホバリングしながら集めた袋を回収するのみ。何故だ!?何故この部隊は救助をしない!?目の前で多くの人々が手当を待っているというのに!!人 命より優先される回収物とは、一体何だ!?以下にその件についてのウェブサイトを紹介する。

「JAL123便墜落事故-真相を追う- 闇夜に蠢くもの(4)」
http://blog.goo.ne.jp/adoi/e/9218d78bddf9f12a9d7bdc8ebec1c10a

 

このオフロードバイクと徒歩で駆けつけた若者の一人は24年間海外勤務にあって真実を語る機会が無かったが、2010年5月16日、江戸東京博物館にて、 その日目撃したことの証言を依頼される。ところが、講演の2週間前、アクシデント発生。車の後輪がバースト。あわや死亡事故につながる緊急事態を咄嗟の運 転テクニックで回避する。損傷部分を検証した結果、軍関係者しか持たない、熱戦銃によるものと判明。「123便事件の真実について、これ以上語るのを止め よ」というメッセージが彼に送られる。幸いにも、かろうじて講演会当日は会場に無事駆けつけ、証言することができた

(中略)

 

朝日新聞前線キャップ木村卓而氏は『一人の女の子は、担架に乗らないほど元気で、救助隊員に抱かれている。他の二人は毛布をかぶされているため、男 女の別やけがの程度ははっきりしない』と元気で無事救出された女の子のことを報告。だが、その後女の子はどうなったのか?突然存在が消えてしまう。

ま た、8月13日午前9時~10時頃、地元上野村消防団が墜落現場に、獣道を伝って登っていく途中で、沢伝いに下ってくる「中学生くらいの男の子を含む男性 四人連れ」に遭遇。衝撃の現場から来たというのに、挨拶しても返事もしない、何も語らない、不気味な沈黙の集団。「沢伝いに下りてくる、中年の男性三人と 中学生くらいの少年が加わった四人のグループに出くわした」飯塚訓(いいづか・さとし)著「墜落現場、遺された人たち」p.119、5行目~。

(中略)

 

さらに、7歳~8歳くらいの小さな男の子が13日午前「走り回っている」ところを自衛隊員に発見されている。報告は無線でただちに流された。報道関係者も この無線を傍受。「男の子発見」のニュースは流れた。フジテレビの「ニュースレポート」では、マイクを握ったフジの山口氏が『現場は惨憺たる状況です。ま もなく、担架に乗せられた七、八歳の少年が運ばれてきます……。』と生中継。しかし、この「男の子」に関する情報が途絶。以後、まるで神隠しにでも遭った ように、その後の「7歳~8歳くらいの小さな男の子」の消息は杳として知れない。

 

(中略)

 

当時、遺体の歯形で本人確認を行った大國勉氏(歯科医師、群馬県警察医会副会長)に、青山さん(元日航客室乗務員、青山透子氏)は何度もインタビューを試 みている。「私は群馬県警察医として千体ほど焼死体を見てきたが、それでも歯は『すす』で黒くても、裏側や一部は白いままだし、骨もそこまで燃えていな い。なのに、あの事故の時は骨の奥まで炭化するほど燃えていた。…二度焼きしたような状況だ」。周囲の木々が幹の中までは燃えていないのに、遺体だけが骨 の芯まで焼かれているのはなぜか。群馬県の検視報告書において担当医が「二度焼き」という言葉を使ったことは、ただごとではない。

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