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第5回 自分の言葉に責任を持つ

11.10.2013 · Posted in コラム, メンタルヘルス

●『半沢直樹』になぜ惹かれるのか

TBSドラマ『半沢直樹』が人気である。ドラマ低迷の今、視聴率は30%近い。他人を貶める暗澹とした銀行で、主人公の半沢直樹が上司に対して自分の正しいと思ったことをズケズケとものをいい、苦境に立たされてもそれを跳ね返す精神力と行動力を持って難問をクリアしていくストーリーが、スピード感あふれる展開で描かれている。

特に窮地に追い込まれた半沢直樹が、強靭な精神力を失わずに「やられたらやり返す、倍返しだ」というセリフを吐くところは、非常に痛快である。自分が発した言葉に対して、きっちりと結果を出す有言実行の様は、捏造やごまかしが横行する社会に生きている現代人からすると気持ちがいい。

序列の厳しい銀行の世界には「部下の手柄は上司の手柄、上司の失敗は部下の失敗」という風潮はまだ残っており、精神を病むケースも少なくない。

銀行に限らずどんな企業でも、もっともらしい言い訳をして逃げたり、責任の弱い立場の人に転嫁するような上司はどこにでもいるし、出世や保身のためにあらゆる手を使って上司に気に入られようと周囲を裏切るような人も少なくない。

時代とともに働き方が変化し企業再編が進む中で派閥争いに翻弄されながら、自分が生き残るためにはキレイ事ばかり言っていられない現実を目の当たりにし、身に覚えのある人が多いからこそ、半沢直樹の言動が共感を得るのであろう。

●伝える側の責任

半沢直樹のような屈強な精神力でどんな困難にも立ち向かい、ズケズケとものをいう人間に憧れても、実際にはなかなかできない。いいたいことがあっても、立場や将来を考えると躊躇してしまう。

その言葉に責任を持てるか、その言葉によって引き起こされる複数のことが想定でき、その準備や覚悟ができるかを考えてしまうと簡単には発言できない。

売り言葉に買い言葉で感情的になると的確な判断に欠ける場合が多いし、思慮が浅いととられ、不用意に言葉尻を捉えられ責任問題にも発展しかねない。

自分の意志で発した言葉であっても、その意図が正確に相手に伝わっているかどうかを判断するのは難しい。表現や言葉が足らず意図とは違った意味で捉えられ、話が複雑化する場合もある。公私どんな場合においても相手に意図をきちんと伝えられることが重要である。

「伝えたはずだ」「こう言ったら、こういう意味に決まってるだろう」「これをやっておいてといったら、◯までするのが当たり前じゃないか」といったコミュニケーションのズレは、よくあることだ。

日本では、「言ったことをきちんと聴いてない」、「その言葉の意味を理解して動いてない」など聴く側の責任にされる場合が多い。しかし、それは逆である。

同じ言葉を発したとしても、考え方や今までの経験、成育環境で、言葉の捉え方やその裏にある意味の広がり方は違う。同じ業種や職種でも企業文化や地域が違えば、仕事の進め方や確認方法も違うことを考えると、言葉を発する方が相手に確実に伝わる配慮をすべきである。

新入社員にいきなり業務だけ指示しても、うまくいかない可能性の方が高いことは誰でもわかることだ。仕事を円滑に進めるためには、仕事内容はもちろん、会社の作法や文化から教えないといけないはずだ。

しかし最近は、新入社員にも即戦力を求め、コミュ力(コミュニケーション力)が重視される風潮の裏で、コミュニケーションの基本を間違って捉えられてはいないだろうか。

「仕事でわからないことは、どんなことでも聴くように」と上司からいわれ質問すると、「そんなことも、わからないのか」と嫌な顔をされるという話もよく耳にする。

海外の人と仕事をする際は、日本の習慣や言葉の意味や扱い方に配慮し正確に伝わるように努力するのは当然だが、日本語を扱う日本人同士だと、通じるだろうという勝手な甘えから、その配慮がおざなりになりやすい。

小さな子どもに話す時はわからないことを前提に丁寧に話すのに、小学生になって普通に会話ができるようになると大人のように扱い、「ちゃんと聴いてないから」などと怒る親がいるが、相手が理解するように伝えたのかどうか。

人は自分の常識で話をしがちで、「それくらいは、言わなくてもわかるだろう」と考えて言葉を発するが、相手にとっては情報不足であることは多い。「自分の常識は他人の常識とは違う」ことを常に念頭においたほうがいいだろう。

日本には『察する』という独特の文化がある。言葉数を増やさず、目配りや声色、雰囲気などから読み取ることが尊重され、「すべて言わなくても理解する」ことが良しとされる。この習慣が、話し手より聴き手側の責任が重くなる理由の一つなのかもしれない。

コミュニケーションの基本として、自分の発した言葉が、どこまで相手に伝わっているか、相手に自分の意図した意味が理解されているかを確認しつつ、自分の言葉に責任を持つことは、どんなシーンでも大切である。

●本音を伝える

半沢直樹のズケズケいう姿をうらやましいと思う人のなかには、自分の気持ちをうまく伝えられず、相手の言葉の意味をあれこれ考えてしまい人間関係に悩む人たちもいるだろう。

そんな人たち向けに、様々なセミナーやワークショップが開催されている。現在携わっている会社でも、こうした人たち向けのセミナーを開催している。

あるワークショップに参加したAさんは、「本音をいってしまったらダメなんじゃないか」と考えてしまい、思ったことを口にできずに、表面的な会話しかできない。嫌な仕事を頼まれても、「自分がやらないと誰かが困るんじゃないか」と自分に頼んだ相手の気持ちを考えてしまって断れず、自分がどうしたいのかがわからなくなってしまう。自分のなかに様々な思いが渦をまいて溜まっているのに、出す方法がわからない・・・見た目は気さくに話ができるにこやかな人が、そんな辛い思いを抱えているとは全く思えなかった。

Aさんは、自分の思い通りにしないと気が済まず言葉や暴力で家族を威圧する強権的な父親、父に対しては従順だがその鬱憤を子どもに対する暴言などではらす母親のいる家庭で育った。習い事、遊ぶ友達、進路、部活など、すべて親が決めた。自分の意見をいおうとすると「わがままいうな」と怒鳴られ、時には鉄拳が飛んでくる。父親の言うことは絶対で、口答えはありえない。断れない性格のため、学校では皆がなりたがらない委員や係を、職場でも面倒な仕事を押し付けられきた。

Aさんは、この状況をなんとか打破したい思いで、様々な本を読み、セミナーやワークショップに参加しながら必死できっかけを探していた。

初めて参加した場所で自分の悩みを整理しながら人前で話すことは非常に難しい。他人に触れられたくないこと、自分で認めたくない部分もあるだろう。しかし、まず自分に向きあい、生きてきたプロセスをすべて棚卸して客観的に見つめ直さないと、自分が変わるきっかけは見つけられない。

講座やセミナーは参加してみると、考えていた内容と違うこともよくある。そのなかから自分にあったものを見つけ、自分の悩みの解決のために取り入れられるエッセンスを探し出すことは容易ではない。

攻撃や否定される心配のない安心・安全な場であることや、絡まった糸をゆっくりと解きほぐす実力のある専門家がうまくリードすることも大切である。また、こういった講座やセミナーは、自己啓発や宗教、ネットワークビジネスが巧妙に入り込んでいる場合もあるため注意が必要である。

Aさんはそのワークショップで今まで親や周りの人間にいえなかったことをはっきりと口にした。その言葉自体は、普通に成人した人からすれば、子どものときの親子ゲンカで発するようなたわいもない言葉だったが、Aさんにとって、その言葉を人前で発することは、大きな一歩だった。自らの思いを言葉にして発することは、本人の自己形成にとって重要な体験になる。

「こういう経験を重ね、いいたいことはいい、嫌なことは断る、誰とでも自分の意見でキャッチボールできるようになりたい」と語っていた。

「自分の意見をいえない、能力をうまく発揮できないのは本人の責任」というのは正論だが、子どもの頃に大きな影響を受けた人は、その呪縛から抜け出すのはなかなか難しい。

しかし、どんな人間でも自立できる能力は備わっている。少しずつできなかったことを勇気を持って実行していけば時間はかかっても理想の自分に近づくことは不可能ではない。

また、我慢を強いられる環境で身についてきた価値観や視点は、個性化や自己主張を尊ぶ現代のなかで、貴重な意見を生み出すきっかけにもなる。様々な人間が共生し相乗効果を生むための相互理解こそが現代には必要だろう。

半沢直樹のように自分がやるといったことは必ず実現させ、職場の仲間や家族にも理解されるのは、ワークライフバランスのとれた人生だといえよう。

彼のように、あらゆる想定を考えながら思慮深く動き、同僚や家族にも配慮しながら言葉をかけられる人間になれる要素は、どんな人にも備わっているはずである。それぞれのレベルや状況は違えども、自分を信じ、明確な目標に向かって進むことを諦めないことが大切ではないだろうか。
 

Int’lecowk(国際経済労働研究所発行)2013年10月号に掲載されたものです。

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