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マクロビオティックの歴史

03.06.2015 · Posted in 健康

「マクロビオティックは、断食、玄米菜食などの健康食」と巷では理解されているようだが、実際のところは、日本発祥の宗教絡み。

創始者の弟子がアメリカに渡り、西洋医学の普及と肥満が増え始め、東洋の健康法として注目を浴び、日本に逆輸入され有名になったとのこと。

長尾周格氏のfacebookより・

マクロビオティックの歴史①

そもそも健康に“良くない”玄米菜食を健康に良いと偽ったり、健康のためには“ならない”断食や一日一食、腹八分目などを健康のためになると偽って広めている、「マクロビオティック」というものが何なのか、多くの人が知らないようです。マクロビオティックが何なのかすら知らないのに、マクロビオティックの主張を鵜呑みにしている人が多いのは、何とも理解に苦しみますね。

マクロビオティックの創始者は、桜沢如一(さくらざわゆきかず)という人物です。この人物の生涯を知れば知るほど、僕の脳裏にはジョセフ・スミス・ジュニアや松本智津夫との共通点がたくさん浮かんできます。

桜沢は元々商家で丁稚奉公をしていた人でした。本人によれば、19歳の時に結核となり、生死の境をさまよっていた時に、石塚左玄の「通俗食物養生法」を読んで食養法を実践し、健康を回復したようです。そこで石塚左玄が作った食養会に入り、精力的に活動するようになりました。

当時食養会は科学や医学の発展によって、石塚理論が破たんし、どんどんと会員が減っていっている状況でした。そこで桜沢は積極的に活動し、潰れかけていた食養会を復興することに成功しました。

しかし、食養会の理事と折り合いが悪くなり、桜沢は食養会を出て、新たな組織を作ることになりました。桜沢が食養会を出た理由は、食養会の創始者である石塚左玄の作った会の考え方がありました。

石塚左玄は科学を重視し、常に最新の科学的知見に基づいて食と健康を考えていくという思いで食養会を作っていました。石塚左玄亡き後、脚気の原因は感染症でもなければ、石塚が考えたようなカリ塩とナトロン塩のバランスの乱れではなく、ビタミン欠乏によることが分かりました。さらに日本で佐伯矩(さいきただす)の創始した栄養学の知見によって、食と健康の正しい見解が次々と明らかになっていったのです。実際佐伯は玄米食の危険性と正しい栄養の知識の普及に尽力していましたから、当時から玄米食が栄養欠乏を引き起こすことは知られていたのでしょう。

食養会の理事たちの多くは、石塚左玄の食養論を原理主義的に守ることよりも、石塚左玄が考えた、科学的思考の方を大切に考えていました。しかし、桜沢は食養論を原理的に信仰する立場を取り、これが食養会の理事たちの反発を生みました。ところが皮肉なことに、潰れかけていた食養会は、桜沢の活動によってその会員は1万人にも達していたのでした。

マクロビオティックの歴史②

桜沢は石塚左玄の食養論の根本理論となっている「夫婦アルカリ論」に、中国思想である陰陽の理論を融合させ、さらに食の理論から宇宙の真理へと飛躍させた理論である、「無双原理」という理論形態を作り上げました。食養会を去った桜沢は、この無双原理を探求する宗教である、「マクロビオティック」を立ち上げ、教団施設として滋賀県大津市に「無双原理講究所」を設立し、信者獲得と布教活動を始めました。

ただし、桜沢が「マクロビオティック」という言葉を使い始めたのは戦後になってからであり、そのきっかけとなった本がアメリカで出版された「ゼン・マクロビオティック」でした。本のタイトルに禅という言葉を使ってはいますが、桜沢は禅寺での修行経験は全くありませんでした。当時アメリカやヨーロッパでは東洋ブームがあり、禅という言葉が単にキャッチ―だったから本のタイトルに使ったに過ぎません。

桜沢は信者を集め集団生活を送る施設である、メゾン・イグノラムス(我知らずの家)というものを作り、そこで信者と集団生活を営むようになりました。新興宗教に取り込まれてしまった家族を救おうと、脱会騒動が起こり、社会問題となりました。桜沢は知られているだけで7人の妻と、十数人の愛人を持っていたと伝えられています。

桜沢は無双原理をPUと呼んで、海外での布教活動にも精を出しました。桜沢自身は世界中を回りましたが、主にフランスを拠点としていたようです。一方、教団幹部で桜沢の信頼の厚かった久司道夫(くしみちお)をアメリカに送り、マクロビオティックの布教に努めさせました。

桜沢が指導した「玄米菜食」によって、病気が治ったり、健康になったりした人がたくさんいると、教団は発表していました。しかし実際には、玄米菜食によって病気になったり死亡したりする人も続出し、さらには桜沢が推奨したライスミルクである「コッコー」によって、たくさんの乳幼児が栄養欠乏で死亡したことを受け、マクロビオティックは怪しげな食事法を推奨している危険なカルト教団であるというイメージが広がっていきました。

桜沢は1966年に74歳で死亡しました。死因は桜沢が生前、マクロビオティックを実践している人は絶対にかからないと豪語していた、卒中でした。桜沢の死後、教団は関西の正食協会と、関東のCI協会とに分裂し、細々と活動していきました。

日本では教祖の死後、マクロビオティックは非常にマイナーな教団となりました。マクロビオティックが有名になっていくのは、日本ではなくて、アメリカでした。

マクロビオティックの歴史③

マクロビオティックは桜沢如一が創始した宗教であり、無双原理(PU、Principi Unique)という宇宙原理を世界に広めることを目的としていました。ちなみに桜沢の5番目の妻がリマだったり、弟子に相原ヘルマンがいたりと、桜沢の弟子たちにはずいぶん外国人が多いと思う方もいるかもしれません。しかしこれはPUネームと呼ばれるニックネームであり、桜沢が弟子に授けたものです。差し詰めこれは、オウム真理教で言うところのホーリーネームのようなものです。

桜沢の死後、マクロビオティックは大阪の正食協会と東京の日本CI協会に分かれますが、元からあるのは正食協会の方です。しかし桜沢の死後は、どちらも細々と会を続けているに過ぎませんでした。

一方アメリカでは桜沢の信頼の厚かった弟子の久司道夫が、マクロビオティックの普及に努めていましたが、これも当初はあまり広まらなかったようです。しかし、久司の活動に転機が訪れます。

1970年代、アメリカでは西洋医学の発展によって感染症による死亡者が減少し、平均寿命が飛躍的に伸びました。その一方で冠動脈心疾患の死亡率が急上昇し、肥満、高血圧、心疾患の対処が急務となりました。ここで本質的な問題解決が図られれば良かったのですが、残念ながらこの頃にはすでに大手製薬会社を中心とした、疾病利権構造が医療界を支配しており、大学等の研究機関もまた疾病利権の意向に沿う研究しか許されなくなっていました。

疾病利権側は肥満、高血圧、心疾患、ガンなどの原因が、飽和脂肪(動物性の脂質に多いとされる)とコレステロール(動物性食品のみに含まれる)の摂取が原因であると、情報をコントロールしようとしました。もちろんこれを支持する明白な証拠は当時も全く存在しませんでしたし、現在に至るまで存在しません。しかしこれを裏付けるためのレポートが無理やり作成され、アメリカ上院特別員会に提出されました。これが有名な「マクガバンレポート」です。

さらにT・コリン・キャンベルらの行ったチャイナスタディや、ハーヴィー・ダイアモンドらの広めたナチュラル・ハイジーンなどの菜食主義こそが、人間が健康になるための理想の食生活であるというキャンペーンが行われました。この流れの中で、久司が布教していたマクロビオティックが注目されることになります。

マクロビオティックは東洋の健康法として盛んにメディアで取り上げられるようになり、アメリカでマクロビブームが起こりました。そのブームが日本にもやってきて、再輸入という形で日本でのマクロビオティックも広まっていきました。

現在の日本のマクロビは、この時アメリカからやってきたものです。アメリカでのマクロビブームは食養法のみのブームだったため、日本にも食養法の理論だけが広まったことから、多くの日本人はマクロビを宗教ではなく、単なる健康食と思っている人が多いのです。

アメリカで大々的に行われた菜食主義の「ヘルシー」キャンペーンの結果、アメリカ人の動物性タンパク質と脂肪の摂取量は減少し、野菜や穀物の摂取量は増大しました。その結果、アメリカの肥満や高血圧、心疾患、ガンは減少したかって?いえいえ、むしろ増大し、アメリカ人の2/3が肥満となり、医療費は100兆円を超える勢いとなっています。日本も40兆円近い医療費の増大が社会問題となっており、この増大する医療費の一端をマクロビが貢献していることは間違いないでしょう。

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