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福島からの自主避難を転機に

11.21.2012 · Posted in Interview

福島避難母子の会in 関東 事務局 虷澤 沙織

●福島から出る決意

虷澤沙織さんは郡山で生まれ、大学時代を関東で過ごした以外はずっと郡山で暮らしてきた。それが、2011年3月11日から一変してしまった。

「娘の保育園のお迎えは、いつもなら20分のところが、震災直後、停電で信号機は消え車の事故と渋滞で2時間もかかりました。家に帰っても停電でテレビも視られず、やっとたどり着いた実家のテレビで津波の甚大な被害を知りました」。

翌12日は、自宅の割れた窓ガラスや屋根から落ちた瓦を片付け、その夜、やっと通じた携帯電話で友人からかかってきた電話が「福島、終わりだと思う」。

「は?」と思ったがネットで調べると原発事故の深刻な状況が次々と流れ、専門家たちが「逃げろ!」と言うのを知り一睡もできなかった。

13日、ネットの様々な情報に加え、「原発反対運動家の武藤類子さんが避難するというのを目にして、本当に危ないんだと感じました」。しかし、テレビでは枝野官房長官が「大丈夫です」と連呼している。「もう、これは自分で調べて、自分で判断しろ、ということなんだ」と思った矢先の14日、福島第1原発第3原子炉が爆発。夫に「娘と福島を出ます」と宣言し、持っていけるだけのおもちゃや生活用品を車に積んだ。「あんな爆発を見たら、二度と帰れない」。娘を外気に触れないようにタオルでぐるぐる巻にしてかっぱを着せ、ビニールを頭からかぶせ、傘をさして出かける準備。「放射能を含む外気に触れるだけで、眼や耳、肌から血が吹き出すようなイメージを抱いていた。未知の恐怖でした」。夫も一緒に行くことになり3人で車に乗り込み、夫の実家のある会津に向かった。

 

●落ち着かない避難暮らし

会津でも2週間後には放射線量が通常の10倍になり、県外に住むことを決意。当時、自主避難を受け入れていたのは東京、北海道、沖縄などあったが、情報を探し当てた時には締め切られていた。たまたまテレビで、山梨にある清水国明さんの運営する『森と湖の楽園』が被災地の子どもたちを受け入れているのを知り、娘と2人で山梨へ。途中通った東京の変わらない様子を見て、少し解放された。

「清水さんが2~3年ではなく20年、30年、この活動を継続する覚悟を目の当たりにしてショックを受けました。現実を受け入れて前に進まないといけない、と」。

娘の保育園に郡山を離れるので辞めると連絡した。虷澤さん家族3人は、4月半ばに綾瀬市の東京武道館に移ったがすぐに閉鎖を知らされ、3日後赤坂プリンスホテルの避難所に移った。一番多い時で約800人が暮らしていた。

「ここに避難した福島県の人は地域も気質も様々で、賠償金の支払いが始まると補償内容や事情の違いで互いに話しづらくなっていきました。警戒区域の人は都営住宅などに決まっていく一方、私たちのような自主避難者たちはどんどん居づらくなって。住宅に応募しても落選ばかり。友達もできずに落ち込み、自分からしゃべる気にもなりませんでした」。

赤坂プリンスが6月末に閉鎖になるため必死で家を探したところ、「1年間、無料で貸します」という現在の大家さんの情報をネットで見つけて即、応募。郡山を出て5カ所を転々とした後、5月末から東京での生活が始まった。


7月7日に行われた、避難者が企画する避難者の話を聞くトークトークふくしま・七夕スペシャル「「星に願いを 福島に祈りを@戸越」。

 

●福島避難母子の会

引越先で参加した『世田谷子どもを守る会』の会合で福島出身者に出会い、昨年7月、福島から自主避難した3人が立ち上げた『福島避難母子の会 in 関東』の第1回のミーティングに虷澤さんは参加し事務局スタッフとなった。その後、品川に事務所を借り、ネット
ワーク『てとて』が誕生。3月3日のオープニングイベントには90名が参加した。福島からの「自主避難者」をつなぎ、避難情報や保養、住宅、雇用情報の発信をめざす。交流会やワークショップでは、避難者や故郷からの報告、弁護士による無料相談、ショーやものづくり体験など盛りだくさんだ。

「毎週火曜開催の福島の人だけのワークショップには、毎回10人~ 20人が参加しています。パールネックレスの制作販売や絵を描いた布をバッグにして販売手数料が入るようにして、楽しみながらお小遣いも得られ、事務所にも収入が入る方法で運営しています。自主避難者は、福島に家や家族を残したまま暮らしている人もいて経済的に余裕はないし、将来も見えないので、境遇の近い人同士の情報交換がとても大切なんです」。

現在のメンバーは40組。別の地域や海外、福島に戻る人など入れ替わりが激しい。「最近来ないと思っていたらパートや習い事を始め、ママ友とランチなど、震災から1年たち都会に根付いてきています。不安で泣き暮らしていたママたちが、都会で順応していく姿はお互いの励みになります」。

福島からの県外避難者は、山形が最も多く約13000人、東京7800人、新潟6500人。山形や新潟に避難している人たちは車で避難しているため、会おうと思えばすぐに会いにいける。

「地方避難の人たちは、会うと『いつ帰る?』と帰る機会を互いにうかがっていたり、毎晩泣いてパパに電話していたり。簡単に会える距離というのは、ある面では安心だけれどもお互いに気遣い合いすぎて、自立しにくいのかもしれない。都会避難の人はどんどん前進して、すでに子どもたちの塾や中学受験のことまで考えている人もいる。都会避難者と地方避難者の時間軸の捉え方の違いを感じますね」。


避難者交流会でのトートバッグ下絵作業。色塗り後つくられたトートバッグは一部販売し、活動資金に。

 

●自分が試される、変化への対応

虷澤さんは、震災前、郡山で子育て情報誌の編集長をしていた。

「郡山には子育て情報誌がなく、ないなら自分で作ろうとママたち10人くらいを集めると、ライターや営業などみんな何かしらの才能がある。授乳しながら編集会議をしてママたちが欲しい情報誌をつくったら第1号から黒字になって、隔月発行で最高1万部の実績。ママたちは楽しいうえに、お小遣いを得られ、月1回飲み会で交流も深まって充実していました」。編集長を3年間務めて若いママに後任のバトンを渡した途端、今回の地震が起きた。

「人生、次に行けというサインだったんでしょう。33年間福島に住み福島に原発があることを知っていたにも関わらず、のんきに原発とヘリポート施設の間で海水浴をしていた。何の知識も危機感もなく。今まで先祖が守ってきた土地のお米を食べ続けられたことが、どれだけ幸せだったか、山や川、緑に囲まれ夜はホタルが舞う、いかに素晴らしい環境に住んでいたかに気づかされました。生まれて初めて新潟のお米を買って食べたときのショックは忘れられません」。見えない部分の絆が断ち切られ傷ついたが、変化に振り回されずに進もうと思えるようになったという。


関東と福島で離れ離れになった家族が一緒に過ごすために、長野での保養企画を実施。
 

虷澤さんは、今年4月から復興庁で政策調査官として1年契約の非常勤で働いている。復旧・復興に向かう福島の現地調査を行い、問題を本庁に報告することが目的だ。

「流れ流れて、寝泊まりできるところを探して辿り着いたのが、東京の世田谷だっただけ。自分で判断したというより流れにまかせて東京に呼ばれてきた気がします」。震災から1年半、もやもやした不安感からは落ち着き、自分で判断して生きていくことに慣れてきたのだという。

「反原発デモへの参加や省庁への要請交渉は続けるつもりです。私は娘のために避難しているから娘が生きていく社会について、おかしいと思ったことはおかしいという母親を見せないと。娘がいなかったら避難していたかどうか正直わかりません。『てとて』の利用者が減っていくことは、みんなが自立して役割が終了したという意味で喜ばしいこと。事務局メンバーも今後どうなるかわからない。これからの人生、ひとりひとりが考えて自分で見つけていくしかないと思います」。

3・11で暮らしや価値観が根底から覆された人は少なくない。1年半が過ぎた今でさえ、何を拠り所に信じていこうか迷っている人もいる。あの事故で国や政治やメディアを鵜呑みにしてはいけないことを知った人は多いだろう。虷澤さんのように自分で確かめ、自分で信じた道を行くことが、納得いく自分の人生を生きることになるにちがいない。

 

虷澤沙織さん
福島避難母子の会 in 関東(http://hinanboshi.blog.fc2.com/)事務局スタッフ。
福島県郡山市出身。3.11まで、福島で子育て情報誌「Hughug」(http://hug2fksm.blog119.fc2.com/)を編集。現在休刊。3.11後、すぐに東京へ避難、今年4月から復興庁・政策調査官として非常勤職員勤務。

 

Int’lecowk(国際経済労働研究所発行)2012年9月号に掲載されたものです。

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