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自分を理解してくれる人を探すことの無意味さ

05.24.2014 · Posted in view, コミュニケーション

誰かに自分のことを理解してほしくて、ほしくて、理解してくれる人をさがしている人がいる。

仲良くなった友人、知人にいろいろ本音を話して、一旦、深いつきあいになりそうになるけれど、「やっぱり、わかってくれないのね」などといって、つきあいがうまくいかなくなっていく。

男女関係もそう。最初は調子良くつきあっていても、すぐに破綻する。

そういうのを繰り返して、結局、カウンセラーや精神科医などの専門家に相談にいき、自分をわかってほしいと主張する。

いくら専門家で傾聴の訓練ができていたとしても、相手の考えることすべてを理解することなんて不可能。なんらかのやりとりで、自分の思い通りのレスポンスが返ってこないと、「専門家なのに、なぜ、わかってくれないんですか。それが仕事なんじゃないんですか」などといってキレる。

なぜ、他人に自分のことをわかってもらえると思うのだろう。

他人は他人。いくら仲が良くても、いくら親しい関係でも、価値観が似ていても、夫婦でも家族でも、すべてわかってもらえることなんてありえない。自分と同じ思考で生きている人なんていない。

自分のイイたいことばかり話して、それで相手が理解してくれるだろうか。また、自分のその時の本音をバラバラに話したり、ろくに本音も話さず、意思表示もせず、わかってもらおうなんて、傲慢過ぎる。「察してくれない」などと文句をいっている人は、超能力者とでもつきあえばいい。

人対人は、互いにフィフティ・フィフティ。

パートナーでも、我が子でも、親友でも、そう簡単にわかりあえないから、相手を気遣い、わかりあう努力をして、互いにキャッチボールをしていくうちに関係が築けるわけで、自分をわかってもらおうとするなら、相手のこともわかろうとしないと無理だろう。

自分は相手をわかろうと努力もせず、自分だけ理解してもらおうなんて、虫がよすぎる。

自分の要望だけ聞いてもらおうとすると、人間関係のバランスが崩れていくだろう。

自分をわかってくれる人を探す時間は、自分のためとはいえ、不可能な夢を追いかけているようなものではないか。死ぬまで見つからなかったら、その人の人生は、どういう人生になるんだろう。

そんな“自分の理解者”を探す時間よりも、自分を磨く時間、自分の理想の生き方に近づける時間として費やしたほうが、断然、自分にとって有意義な人生を送れるだろう。

 
“人は、そう簡単に自分のことをわかってくれない”

そう思って生きていると、たまたま理解しあえたとき、「ラッキ~!」と感動したりうれしくなったりする。

自分の考え方次第で、相手の言動に対して湧き出てくる感情が変わるなら、良い結果が生まれやすい考え方で生きたほうがいいのではないだろうか。

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