復旧と復興。平常が戻りつつある〜3度目の南三陸
7/8~7/9,三度目の南三陸町を訪れた。キッズドアと企業との協働企画の戸倉小学校での子どもたちへの遊びのプロジェクト、今後のプロジェクトのためのうちあわせ&リサーチで、いろいろな人にあった。
●自然の家のコミュニティカフェ
次々に仮設住宅ができ、避難所の人はほとんどいなくなっていた。
戸倉地区、自然の家の敷地には、コミュニティ・カフェ「お茶っこ」ができあがり、PCや雑誌がおいてあって、いつでも人が集える状態になっていた。テントをはって、テーブルと椅子を置いただけの空間だけれど、あちこちから見える場所なので、人がいると、自然に集えるのではないか、と思う。
前回訪れたとき、仮設に移ってきた人のためのコミュニティづくりには、どうしたらいいか、ボランティアリーダーの人が頭を悩ませていて、コミュニティ・カフェをつくるにも、いろいろと手続きなどで実現するか・・・といっていたから、あのまったりした空間を見て、ちょっとホッとした。じりじりと炎天下で人はほとんどいなかったけれど、今後も時々小さなイベントをやって、みんなで共有できる場所で、交流ができ、みんながつながっていけばいいな、と思う。
夏休みにボランティアを送る予定があり、リーダ-にどんなボランティアが必要かうかがった。
草むしり、側溝掃除など、片付け系は、いくらでもある。しかし、この炎天下で、外での活動にどこまで耐えられるのか。日頃オフィスワークをしている会社員やのんびり暮らしている学生が、そんなガテン系の仕事をいきなりしたら、熱中症になってしまうのでは?とちょっと心配になった。
●南三陸ゆめ花火への寄付は…
東京の高校生ボランティアチーム「キッズウィンドウ」が、被災地支援でクッキーを売って寄付を集める七夕短冊付きスタークッキープロジェクトを進行させている。
その寄付先として、「南三陸こども夢花火」を予定している。南三陸で毎年行われていた花火を今年も行おうと、有志が集まって実行委員会を設立。子どもたちの笑顔のために、なんとか花火を実現させようと「南三陸こども夢花火」と名づけ実現に向けて頑張っている。
漁協に勤める高橋一実さんが実行委員長。実行委員でコアで動いているのは、なんと7人!
すでにうちあげるための花火は、楽天市場で目標数まで売れたという。あとは、場所の確保や警備などの問題をクリアしないといけない。うちあげ場所は、消防や警察の許可がまだ出てないので、内緒ということだった。
寄付の件で相談すると、「たくさんの方から支援の申し出を頂いていて、花火見物&ボランティアというツアーなどの話もあったけれど、少ない実行委員で対応するのは難しいし、電気もない真っ暗な町で何か起きたら大変。せっかく毎年継続のつもりで集めた募金が警備で出て行ってしまうのは忍びないし、まず外部の人間がたくさん入ってきたら、子どもたちが花火を楽しめないかもしれない。いろいろとみんなで議論した結果、外部からの人や支援はシャットアウトということになった」という。正解だと思った。町の子どもたちやみんなのための花火にしてほしい。
東京で集めた寄付を、なんとか子どもたちに届ける方法はないかと、教育委員会の人を交えて相談した。南三陸の小中学校の子どもたち全員に何かをプレゼントという案が浮上。教育委員会の人は、事前に詳細をやりとりし、各学校に迷惑がかからないように届けるならOKということになった。東京に帰り、集まった金額で何がプレゼントできるか考えることに。
ここの人たちは自分の状況や仕事も大変なのに、こうやってこちらのコトもきちんと考えてくれる。多くの人からの支援を感謝しつつ、人と人とのつながりを大事にしてくれる。自分自身のことで精一杯のはずなのに…本当に頭が下がる思い。
高橋さんの奥さんは、津波から24日間行方不明だったそうだ。
「もうあきらめていた。そうしたら24日目に秋田の病院から電話があった。生きてたんです。海上でヘリに引き上げられた2人はそのまま秋田の病院に搬送された。電話がかかってきたとき、なぜ、今?と思ったけれど、本人も起きられなかったし、電話もかけられず、番号もわからなかったって」
その話を聞いてうるうるしてしまった。喜びの瞬間に一緒にいた気分で嬉し泣きしそうになった。
今、奥さんは、石巻で看護師さんとして働いているという。助かった命を大事にしつつ、人を救うために働いている。
●ながしず荘は、避難所から民宿へ
泊まりは、ながしず荘。お母さんの気さくで愛嬌のある大きな声の挨拶が好き。
仮設住宅ができたため、ここに避難していた人は仮設住宅に移り、すっかり民宿となっていた。
4月に行った際は、ここは物資と避難してきた人たちでいっぱいだった。一家族ととともに、東京から一緒に行ったメンバー10人で雑魚寝した大広間は、きれいに片付いていて、壁に貼られていた町からの手続やお知らせ、仕事募集などの貼り紙は、きれいに取り去られていた。地震で壊れた壁も直され、ドアやガラスも替えたという。
お部屋は、初めて2階の角部屋。海がきれい。
先週までは、2階の部屋は、家族単位で避難された人が使っていた。
夕飯もびっくり!食事もきれいにお客用のお皿に盛りつけられていた。今までは、水が使えなかったので、発砲スチロール容器で、食事が終われば、ゴミ箱へ。ついつい今までのクセで、キッチンにいって盛り付けを手伝ったり食器を運んだり。避難された方がいるところに宿泊させて頂くわけなので、お手伝いしないと申し訳なかったし、やるのは当然という感じだったが、今回は「いいの、いいの、座ってて」なんて言われてしまって変な感じだった。
大広間に3人だけの食事は、なんだかさびしい気がした。今までは、長机が4列も並んで、食事時は、ここに避難している人が30〜40人くらい一緒に集っていたから。
今回は慶応大学の先生と同行して、夏休みの慶応のプロジェクトでの宿泊先のご相談をしたのだが、お母さんは、快く引き受けてくれた。学生に料理や布団のたたみ方なども、仕込んでくれるとのこと。
夜、及川パパと歓談。いつもは仙台でお仕事、週末だけ戻るという日々。今回は会えないかもと思っていたが、出張がなくなりお会いできてよかった。
南三陸町の復興の方針は? ネイチャーセンター復活、戸倉小の今後、どこに家を建て、町をつくるのか・・・などなど、復興の見通しがなかなかつかない現実。すでに高台プロジェクトを進行させているけれど、少しいらだっているように見えた。阪神大震災は、元に戻すことをめざす”復旧”だったから早かったけれど、ここは地盤が70〜80cm沈んでいて、さらに一度津波で流されたところに、また家を建てようなんて思わない人がほとんど。では、どこに建てるのか? 高台を造成して建てるしかない。では、町を造成するだけの予算は・・・?
「今年の秋くらいには規制がはずれるから、勝手に元の土地に家を建てる人も出てくるだろう」と及川さん。
「家もない、水や電気もまだだけれど、平常が戻りつつある。”復興”とか”支援”と騒ぐけれど、地元の人間からすると、別に支援を頼んでないし、復興、復興ってあおられるような気がして、上から目線な感じなんだよね」。
もうすぐ4ヶ月。仮設住宅に多くの人が移り、肉親を失った人も家族単位での新たな生活が始まっている。町のなかで仕事を見つける人、お父さんだけ仙台などに出稼ぎにいき、週末だけ戻ってくる人、先の見えない生活に不安を抱えながら、それぞれ生活の立て直しを図ろうとしている。なかには、仮設住宅での自立が難しい人、肉親を亡くし心のケアを必要としている人、絶対的な支援を必要としている人がいる。