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くれくれ病

08.07.2011 · Posted in 震災復興

世界的規模で寄付金を集めるNGO。命に関わる状況での支援は、そのネットワークと潤沢な資金を使って、食料や生活費必需品を投入する有効な緊急支援が行われている。緊急事態をとりあえず脱した第2フェーズ、第3フェーズの生活支援においては、そういう団体は地域性や現場特有の状況を考慮に入れた支援が必要なため、現場での対応力や専門性のある団体や個人に委託して支援を行うことが多い。その支援は、どのように物資を供給するかということも大事だが、人的サービスの比重が増える。お金の集まる団体には、物資も集まるというわけで、大手企業からの物資提供でモノの種類も豊富、量もたくさんある。そういった物資は、緊急支援は必要でなくなった後も、物資が届けられる。

人的サービス支援にプラスされる、量的に多すぎるとも思える高価な物資。
そんな物資は本当に必要なのだろうか。支援先のニーズを理解して、配布されているのだろうかと疑問に思うことが多い。

支援される人たちにとっては、その人的支援は必要だろうが、モノをもらうことによって最初は感謝をしていても、回数を重ねるとともに、与えられることに慣れ、もらうことが当然となり、もらう権利を主張してもいいと思うようになる。

東日本大震災で大きな被害を受けた町は今、「くれくれ病」に頭を悩ましている。モノをもらうことに慣れ、すぐにもらえないと文句をいう、もらって当たり前の精神が、自ら町を立てなおそうという人の動きの邪魔をしているというのだ。

困っている人に支援は必要。ただ、大量にモノを提供する行きすぎたと思われる支援は人を依存体質にし、自立を妨げる。
たくさん寄付の物資が集まるところは、たくさんあるからといって、安易に多くのものを提供すべきではないと思う。

分をわきまえた人は、必要ないものは受け取らない。しかし、ただでもらえるものなら、もらわないよりは、もらっておこうと考える人は少なくない。そういう行為を続けていると、「欲しいと言ったらもらえるのではないか」という発想を生み出してしまう。甘やかされることに慣れると、人は自分を見失う。もらうことに慣れれば、人は努力をしなくなる。

自分を堕落させない、依存体質にならないためには、必要以上に受け取らないようにすべきだろう。でも、どこで線引きをするか本人でも自覚がないことが多い。

同じ支援でも、「支援」と受け取る人もいれば、「施し」と捉え尊厳を傷つけられると感じる人もいる。
その一線を支援する側が見極めるのは難しい。その捉え方は、支援される側にしかわからないから。

本当に必要なものかどうかを見極める力、それをはっきりと言動に表すや断る勇気を持たない限り、尊厳の輪郭はどんどんとぼやけてしまうだろう。

現地のニーズをきちんと把握することは大事だ。でも、ただ現地の声に対応すればいいというわけではないと思う。現地の声といっても、ひとりひとり違っていて、短期間に聴ける声は限られている。その声が、どれくらいの割合を占めるのか、判断するのはかなり難しい。支援する側が、そういう意識をもって接していないと、新たなひずみを生み出す。現地の人々の復興を支援するにも、人の自立や尊厳と同時に、人間という生き物をよくよくわきまえないといけないと思う。

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