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ロボトミー手術を受けた兵士の戦後

02.01.2014 · Posted in 社会

米国政府は第2次大戦の最中とその後におよそ2000人の精神を病んだ退役軍人にロボトミーを施していたという。それも、電気ショック、温水と冷水の高圧シャワーを何度も施し、効果がない人間にロボトミー手術を施したのだ。
ベトナム戦争後に戦争PTSDが有名になったが、その前から米政府は、元軍人にこのような処置を行っていた。
お国のために戦った軍人の精神がおかしくなると、その後の兵士募集にも影響が出るし、戦争で勝つことが美徳にならない。

国は、国民の人生や生活よりも、国の目論見通り動く国民が入ればいいのである。国家にとって都合の悪い人も記憶もなんのためらいもなく消し去る。

ロボトミー手術を受けた兵士の戦後
(ウォール・ストリート・ジャーナル 2013年 12月 19日)

ローマン・トリッツさんの過去60年間の記憶は老齢と妄想でぼやけている。しかし、彼のところにやって来た看護兵に激しく抵抗した日のことだけははっきりと覚えている。

「奴らは私にロボトミー(前頭葉切断術)を施すつもりでやってきたのだ」と第2次世界大戦の爆撃機パイロット、トリッツさんは言う。「忌々しい奴らめ」

退役軍人病院の看護兵たちはトリッツさんを床に押し付けたという。トリッツさんがあまりにも激しく抵抗するので、その日は彼らもあきらめた。ところが、彼らは1953年7月1日、トリッツさんが30歳の誕生日を迎える数週間前に戻ってきた。

このときは医者たちの思い通りになってしまった。

ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)が発見した膨大な資料――忘れられていたメモ、手紙、政府の報告書など――によると、米国政府は第2次大戦の最中とその後におよそ2000人――あと数百人はいた可能性が高い――の精神を病んだ退役軍人にロボトミーを施していた。北アフリカ、欧州、アジア太平洋地域といった戦地から精神的な障害を負った兵士たちが続々と帰国したことから、復員軍人援護局(VA)はうつ病、統合失調症などと診断された人々や場合によっては同性愛者とされた人々に脳を変容させる手術を施した。

今回、初めて明らかにされたVAが実施したロボトミーは、内なる悪魔に苦しむ退役軍人たちに安らぎをもたらすこともあった。とはいえ、そうした手術は退役軍人たちを自分たちの面倒も見られない成長し過ぎた子供同然にしてしまうことが多かった。引きつけ、記憶喪失、運動技能の喪失などに苦しむ人も多く、命を落とす人もいた

現在90歳のトリッツさんは、その経験を語れる数少ない生存者の1人である。額の両側、白髪の生え際近くにある浅いくぼみをなでながら、「ここがあまりよく働かないんだ」と彼は言う。
感情を支配する脳の前頭前野の組織を切断するロボトミーをVAが利用していたという事実は、1940年代の終わりから1950年代初めにかけての医学界では知られていたことで、医療テキストでもまれに触れられている。ところが、そうしたVAの施策が広く公にされたことはなく、大昔に世間の記憶から消えてしまった。米退役軍人省でさえ、そのロボトミー計画が発足した経緯や範囲についての詳細な記録は持ち合わせていないという。

最近、その計画についての質問を受けたVAは次のように文書で回答した。「1940年代の終わりから1950年代の初めにかけて、VAや米国、そして世界中の医師たちはロボトミーの効用を議論した。その外科手術は他の治療で改善が見られなかった深刻な病状の患者に施された。しかし、その後より安全で効果的な治療が開発されたため、VA内でも米国全土でも、その外科手術が行われていたのは数年間だけである」

国立公文書館に保管されていた古いファイルには、戦地から戻った兵士たちを苦しめる精神的な障害の治療法として何が最善かという米国を今日まで悩ませ続けている疑問と格闘したVAの医師たちが、最後の手段としてその脳外科手術を用いたことが示されている。

WSJが再発見したVAの文書によると、1947年4月1日から1950年9月30日までの期間に、VAの医師たちはロボトミーが許可されている50の病院で1464人に手術を実施したという。うち22の病院で見つかった大量の記録には、その期間外に施されたロボトミーが466件あり、確認された事例の総数は1930件になる。記録が残っていない病院や期間もあるので、さらに数百件の手術がその他のVA施設で行われていた可能性が高い。VAのロボトミー手術を受けた退役軍人には女性もいたが、患者の圧倒的多数は男性だった。

1950年代半ばに最初の重要な精神病治療薬であるソラジンが市場に出回り、精神医療に革命が起きたことで、ロボトミーは廃れていった。

トリッツさんの身の上話には、ときに信ぴょう性に欠けるところがある。彼は自分のことを「精神病患者ではなく、精神的負傷者だ」と説明する。この数十年間、政府の陰謀に関する被害妄想を抱き、とりとめのない話を繰り返してきた。

ところが、戦時中の軍務や自らのロボトミーに関することは明快に話す。そうした話の多くについては、公式記録、家族とのインタビュー、歴史学者、当時の同僚などからの裏付けが取れている。

トリッツさんの兵役と精神病との境目を直線で描くのは不可能だ。とはいえ、記録から健康な身体で戦地に赴いた若者が、空中戦での容赦のないストレス――ドイツ軍の戦闘機メッサーシュミットや高射砲の攻撃――を経験し、帰国してからひどい幻聴に悩まされたということが分かる。

ウィスコンシン州トーマのVA病院の患者として過ごした8年間に、トリッツさんは28回もの電気ショック療法を受けた。それは一般的な治療法だったが、かなり激しいけいれんを引き起こし、患者が骨折することもあった。医療記録によると、トリッツさんはVA病院で日常的に行われていたもう1つの治療も受けていた。症状を和らげると考えられていたインスリン・ショック療法――インスリンを皮下注射して一時的な昏睡を引き起こす――である。

記録によると、患者たちの神経に刺激を与えるため、病院のスタッフが退役軍人たちに対して温水と冷水を交互に高圧で噴射するということも普通に行われていたという。トリッツさんは「スコットランド式の潅水」や「針のシャワー」と呼ばれたこの高圧噴射療法を66回も受けている。

こうしたすべての治療に効果がなかった場合にロボトミーが施された。

VAの医師たちは、ロボトミーの実施に関して自分たちは慎重だと考えていた。それでも、効果的な精神療法を切望していた彼らは、東はマサチューセッツ州から西はオレゴン州まで、北はサウスダコタ州から南はアラバマ州に及ぶ全米各地のVA病院でその手術を実施した。

「どんなことでも成し遂げられる」

1923年にウィスコンシン州ポーテージ郡で7人兄弟の1人として生まれたトリッツさんは、両親に厳しく育てられた。3人姉妹のうちの2人は高校を卒業することが許されたが、元気に成長した3人の息子たち(1人は幼児期に亡くなった)は中学2年で学校をやめて家業の農場の手伝いをすることになっていた。学校をやめた後、トリッツさんは父親が牛の世話をするのを手伝った。「一生懸命に働き、強い腰を持っていれば、どんなことでも成し遂げられる」というのが父親の信条だった。ところがトリッツさんは、飛行機の操縦を夢見て陸軍航空隊に入隊してしまう。軍で訓練を受けた彼は、空飛ぶ要塞と呼ばれ、多くの機銃を搭載した4発重戦略爆撃機「B17」のパイロットになった。

米空軍上級航空戦力研究所学校の軍事歴史家、リチャード・ミューラー氏によると、1945年1月17日、ハンブルグにあるUボートの燃料庫を爆撃するために飛行大隊が派遣されたという。トリッツさんはプディンズプライドという名の機の副操縦士だった。その機体には水着にハイヒールを履いて挑発的に横たわる爆撃手の妻のピンナップイメージが描かれていた。

その飛行大隊は高射砲の榴散弾が飛び交う暗い雲に突入していった。プディンズプライドは潜水艦待避所のちょうど真上で気流に巻き込まれ、90度横回転し、600メートルほど高度を下げたが、トリッツさんと操縦士がなんとか機体を安定させた。軍はこの件で新聞発表を行い、ポーテージ・デイリー・レジスター・アンド・デモクラットという地方紙が地元出身のパイロットの危機を詳しく報じた。

「爆弾を満載したまま横倒しになった瞬間は最悪だった」その日、上部機銃座を担当していたゴードン・スコーダールさん(現在91歳)は振り返る。「あれには少し動揺したよ」

1945年4月7日、トリッツさんの飛行大隊はカルテンキルヒェンの飛行場施設を爆撃した。そこはドイツ軍が不利になっていた戦況を好転させ得ると期待していた新しいジェットエンジン戦闘機の本拠地だった。正確な爆撃を行うため、通常の高度8400メートルでなく、5500メートルを飛行していた「B17」は反撃を受けやすい状態にあった。

撃墜できない敵機には機体で激突しろという命令を受けていたドイツ軍の戦闘機が米軍の爆撃機に群がった。その攻撃は爆撃機が英国へ引き返すまで40分間も続いた。

その場を離れて帰還の途に就いたトリッツさんは危機を脱したと思っていた。そのとき、一機のドイツ軍機が視界に飛び込んできて、近くを飛行する「B17」に激突し、その尾部を破壊した。米軍の搭乗員1人が開いた扉から転がり落ちて消えていくのも見えた。

1945年4月19日の最後の爆撃任務の後、トリッツさんは故郷のポーテージに戻り、かまぼこ型のプレハブ建築物を組み立てる仕事に就いた。彼は除隊する際、軍医たちから健康証明書を受け取っていた。

政府の病院で行われていた戦争による心的外傷の治療

第2次世界大戦が始まったとき、米軍はそれ以前の戦争で兵士たちを苦しめた精神医学的な問題を食い止める方法を知っているつもりでいた。精神的な問題の兆候があるかどうかで新兵候補者たちをふるいにかけ始め、最終的には180万人もの米国人男性がそれを理由に第2次大戦で軍務に就くことを政府から拒否された。

それにもかかわらず、ほどなくして米軍とVAは病院が精神を病んだ患者であふれていることに気付く。1955年の米国学術研究会議の調査によると、戦時中に精神的、神経内科的な障害で軍の病院に入院した現役兵士は120万人もいたという。これに対して戦傷で入院した兵士は68万人だった。

最も症状がひどい患者たち(精神病を患った第1次大戦の退役軍人たちも含む)向けの効果的な治療法を切望していたVAはロボトミーを採用した。当時、この処置の民間病院での実施例は数万件に上っていた。ロボトミーがここまで普及した背景には、その最も熱心な推進者である神経学者のウォルター・フリーマン博士と神経外科医のジェームズ・ワッツ氏の存在があった。

「その手術を実施すると、不安、うつ状態、強迫観念、激しい感情を伴う妄想などを取り除く上で有用であることがわかった」1943年7月、VAの副局長だったジョージ・イジャム氏は局長に宛てた手紙でこう訴え、VAがロボトミーを承認することを強く求めた。

それから1カ月も経たないうちにVAの本部はガイドラインを設定した。これにより医師たちには、ロボトミーの実施を「ショック療法を含む他の治療で効果がなかった」場合に限定すること、患者の最近親者の許可を得ることが義務づけられた。

1940年代の終わりと1950年代初めには、ベトナム戦争後に台頭し始めた病名「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」という診断が存在しなかった。当時使われていたのは「砲弾ショック」とか「戦闘神経症」という病名だった。しかし、かつてVAの精神科医をしていたバレンスタイン氏は、ロボトミーを受けた患者たちの多くが、今であればPTSDと診断されたかもしれないと話す。

1940年代半ばにケンタッキー陸軍病院で精神科病棟の責任者をしていた現在90歳のマックス・フィンク医師は「現実的に振り返ると、患者の診断はあまり重要ではなかった――重視されたのは患者の行動だった」と言う。他のいかなるテクニックでも異常行動が抑えられなかった退役軍人にはロボトミーが適用されることがあったという。

患者にロボトミーが必要か否かを判断するのに十分な知識がわれわれにはなかったと思う」とフィンク医師は話す。「われわれには他にできることがなかったということだ」

標準的なロボトミーでは、外科医が額から頭蓋骨に2つの穴を開け、そこに回転する器具、もしくはへらのような形のメスを挿入し、額の裏にある前頭葉前部と脳のそれ以外の部分とを切断した。専門家はそうしたつながりが過度に強迫的な感情を促進していると考えていた。

ロボトミーを世間に広めた神経学者のフリーマン博士は、物議を醸したテクニックの先駆者でもある。博士は上瞼の下に挿入したアイスピックを小槌で叩くことで眼窩の薄い骨を破って脳に到達させ、それを細かく動かすことで切除を行った。

トリッツさんが脳手術を受けるに至った経緯

現在83歳のトリッツさんの妹、レジーナ・デイビスさんには、英国から帰国した直後のトリッツさんが十分健康に見えたという。ところが1940年代の終わりになると、トリッツさんの様子がおかしくなった。

診療録によると、2人の両親は、トリッツさんがレジーナさんに危害を加えることを心配していたようだ。「彼には、私たちの1人がいる他の部屋に行くようにという声が聞こえていた」とウィスコンシン州チルトン在住のレジーナさんは振り返る。「何をするつもりだったのかはわからない」

1949年、両親はトリッツさんを精神病を専門とするトーマのVA病院に収容させた。

それからわずか数カ月のうちに、医師たちはトリッツさんのロボトミーを検討し始めた。ある脳外科医の検査報告によると、正面を見つめていたトリッツさんは話すことを拒否し、手や腕を「さまざまな奇妙な位置に」曲げ、頭の中の声を聞いているようだったという。

ある精神神経科医はトリッツさんの場合、手術では良い結果が出ないかもしれないと警告した。「その後に社会復帰できるかは疑わしい」とその医師は書いている。そうした記録がトリッツ家の人々と共有されたかどうかは不明である。

トリッツさんの父親はロボトミーを許可し、母親がその証人になった。

手術の当日、麻酔専門医がペントタールナトリウムでトリッツさんに麻酔を施した。午前11時5分には、外科医が彼の頭蓋骨に最初の穴を開けた。正午には彼の額は黒の絹糸で縫合されていた。トリッツさんのロボトミーは完了した。

手術後、トリッツさんの妹と母親は包帯を巻かれ、ベッドで苦痛にもだえる彼を見舞った。「とても痛がっていました」とレジーナさんは振り返る。「兄の苦しむ姿を見るのはつらかった」

トリッツさんはそのときに「ひどい頭痛、誰でも耐えられないであろうほどのひどい頭痛」がしたことを覚えている。

ラクロスにあるダイナーでの孤独な食事

トリッツさんは手術から徐々に回復した。手術の6週間後、彼は寝ている間に大声で叫び、全身をけいれんさせた。それは一連の発作の1回目で、医師たちはロボトミーが原因である可能性が高いという結論に達した。

ところが1953年9月には、トリッツさんは快活になり、ジグソーパズルをしたり、他の患者たちとチェッカー(チェス盤を使って行うゲーム)をしたりした。しかしまたすぐに自分の殻に閉じこもり、自分のことを「宇宙の王子」だと言って医師たちを心配させた。

1954年1月、医師たちは実家の農場での試験滞在を許可したが、うまくいかなかった。記録によると、トリッツさんの父親は訪ねてきたVAの社会福祉指導員に、自分1人で息子をトーマまで送っていくのが怖いとささやいたという。最終的には郡保安官がトリッツさんを病院に送り届けた。

記録によると、その春に行われたプール療法の最中、トリッツさんは「かなり混乱し、緊張病性昏迷(極度に緊張し興奮したり暴力をふるったりする状態)に陥った」という。ゲームルームで活動する気を起こさせようとした医師たちの指示で、彼は30回の高圧噴射療法を受けることになった。

1955年に実施された別の試験滞在では、発作が起き、口から泡を吹いて終わった。医師たちはまたしてもロボトミーが原因だとした。

1956年の最後の試験滞在はそれまでよりもましだった。トリッツさんは毎晩、両親とトランプをして過ごした。それでも、車で街に出かけたときには車から降りることを拒否した。VAの社会福祉指導員は「息子は病院に戻るのを怖がっている」と父親が話したということを報告している。

1957年3月30日、VAは正式にトリッツさんを退院させた。収容されてから2272日後のことだった。

1958年に母親が亡くなると、トリッツさんと父親の2人暮らしになった。父親は息子の精神病の症状が再発すること、頭の中の声が戻ってくることをますます心配するようになった。

トリッツさんの父親は結核と診断され、1960年に療養所に入所した。トリッツさんは妹によってトーマのVA病院に送り返され、その翌年のほとんどもそこで過ごした。

1960年代の初め、VAはトリッツさんの世話を農場の家族や下宿屋の管理人に託すようになった。1963年、トリッツさんは技術学校で学ぶためにラクロスに引っ越した。

VAの記録によると、当初、人々は発作歴を理由にトリッツさんを雇うことを拒否したという。それでも彼は最終的に機械工場で飛行機や配管設備の部品を加工する仕事を見つけた。週給70ドルからのスタートだった。

その後の数十年間、彼の症状は現れたり消えたりを繰り返した。家族とは疎遠になり、友達付き合いにも慎重になり、政府の陰謀や自分の頭に埋め込まれたと信じている磁石のことで思い悩んだ。

30年以上にわたり、トリッツさんはラクロスにあるキングストリート・キッチンというレストランで1日2回、1人で食事をしている。常連客は彼の午前10時30分の到着に合わせて時計を合わせると冗談を言う。朝食は通常、ハムとチーズのオムレツ、ハッシュブラウン、2切れのベーコンである。彼が他の客と話すことはめったにない。

ロボトミーが彼の人生にどのような影響を与えたかと聞かれると、トリッツさんの思考は袋小路に入ってしまった。「飛行機を操縦しているときに頭にひどい怪我を負って仮死状態になった。今では混乱していてそれぐらいのことしか言えない。分からないんだ」。

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