fine-club.project approach with well-balanced mind for a balanced life

もうすぐ6年 志津川病院

02.16.2017 · Posted in 震災復興

東日本大震災からもうすぐ6年。

南三陸町志津川病院での、当時の状況を、今あらためて読み返す。

震災から1週間後、その地に出向いた時の記憶と、あの、言葉が出ない、得も言われる感覚がよみがえる。

決して忘れてはいけない。

<回顧3.11証言>動けぬ患者 迫り来る水
(河北新報 2017年02月16日)

 海からの距離わずか400メートルの平地に立つ宮城県南三陸町の公立志津川病院。東日本大震災で入院患者107人のうち72人が死亡・行方不明となり、院内では看護師と看護助手計3人も波にのまれた。病院は東棟(4階)と西棟(5階)の2棟。津波は4階まで達した。入院患者の多くが自力歩行困難な65歳以上の高齢者だった。(吉田尚史)

◎75人死亡・不明、公立志津川病院(上)

<誘導>
 午後2時46分。強烈な横揺れに体を支えきれず、廊下の手すりをつかんだ。
 東棟4階の看護師千葉志帆さん(34)は揺れを感じ、入院患者の安否確認に向かうため、ナースステーションを出たところだった。
 「患者の上に物が落ちてこないよう中央にベッドを集めて。大部屋には1人ずついるように」。上司の指示で、看護師が手分けして病室を回る。
 「ベッドを動かしますね。大丈夫ですよ」。千葉さんは402号室の患者に声を掛けた。
 同じ東棟の2階では、看護部長星愛子さん(55)が看護部長室向かいの総務課に駆け込んだ。「対策本部は5階でいいんですね」。入院患者一覧と看護師のデータが入ったパソコンをバッグに詰め、最上階の西棟5階の会議室へ。黒板に患者の安否情報を書き込む準備を始めた。
 「高さ6メートル」という大津波警報にざわつくフロア。近隣住民が次々に建物に駆け込んでくる。「すみません、患者さんを先に上げます」。男性スタッフは叫び、入院患者を上階へと誘導した。

<混雑>
 入院患者がいるのは東西両病棟の3、4階で、両棟は5階を除く各階が渡り廊下で結ばれていた。「津波想定時には3階以上に避難」という院内ルールだったが、医療スタッフそれぞれの判断で上階への搬送を開始した。
 入院患者のほとんどが65歳以上の高齢者で、寝たきり状態。数人で患者をシーツに載せたり、車いすに乗せたり。患者を運び上げるのには労力と時間を要した。
 「周りにいる患者さんをそれぞれが運んだ。いつ津波が来るのか分からない。優先順位を考える余裕はなかった」。内科医菅野武さん(31)が振り返る。
 「早く上がってください、早く」。東棟1階では、職員が次々に駆け込んでくる住民への対応に追われた。エレベーターは停電で動かない。
 事務職員後藤正博さん(48)が脳裏に焼き付く記憶をたどる。「高齢者は階段を上がるにも足がついていかない。懸命に尻を押し、引きずり上げた」。逃げ込んだ住民ら約120人の誘導と入院患者の搬送が重なり、階段は混雑を極めた。

<濁流>
 防潮堤を超えた波が迫ったのは午後3時半ごろ。1、2階の避難完了を確認した総務課長最知明広さん(51)は、窓の外に土煙を見て駆け上がった。ごった返す西棟3階エレベーターホールに走り込み、階段の最後尾からせき立てた。「上がれ! 上がれ!」
 東棟4階で女性の叫び声が響いた。「家が流されてる、もう駄目」。その絶叫を聞いたのは、4階で病室を回っていた看護師千葉さんだ。千葉さんが外を見ると、濁流は目の前のショッピングセンター手前まで来ていた。
 千葉さんは叫び声がした405号室に飛び込み、とっさにそばにあった車いすに患者を乗せ、無我夢中で5階へ急いだ。「早く逃げなきゃ」
 避難者をせき立て続けた後藤さんも、生死の瀬戸際に立っていた。せり上がる波は、屋上へと向かう東棟4階の階段までに達した。逃げても逃げても、水が追ってくる。屋上に出ると、4階から駆け上がってきた看護師の足元がぬれていた。
 病院スタッフの懸命の避難誘導にもかかわらず、病室には多くの患者が残されていた。=2011年6月7日河北新報
          ◆         ◆         ◆
 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 6年の節目に際し、被災者の「証言」を集めた一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201702/20170216_13064.html

======================

<回顧3.11証言>スタッフ 死も覚悟
(河北新報 2017年02月16日)

 海からの距離わずか400メートルの平地に立つ宮城県南三陸町の公立志津川病院。東日本大震災で入院患者107人のうち72人が死亡・行方不明となり、院内では看護師と看護助手計3人も波にのまれた。病院は東棟(4階)と西棟(5階)の2棟。津波は4階まで達した。入院患者の多くが自力歩行困難な65歳以上の高齢者だった。(吉田尚史)

◎75人死亡・不明、公立志津川病院(下)

 南三陸町の公立志津川病院は、津波に襲われながら、入院患者42人を避難させる。死も覚悟したスタッフたちは、第1波が引いた後にも壮絶な救出劇を繰り広げていた。

 東棟4階408号室。病室の扉が開くと、廊下から水がザーッと流れ込んできた。自力歩行も困難な入院患者西城俊彦さん(69)が必死で扉に手を掛けていた。
 「まずい、これでは看護師さんは来られない」。西城さんはとっさに扉を閉めた。看護師が「今、車いすを持ってきますからね」と言い残して出ていってから、しばらく時間がたっていた。
 徐々に病室の水かさが増す。浮き上がる体、近づく天井。カーテンレールにしがみついた。
 津波は、対策本部を置いた西棟最上階の5階会議室の一歩手前まで迫った。死を覚悟した看護師は自分の身元が分かるようにペンで腕に名前を書いた。医師の一人は、普段は治療の支障になると言って外していた結婚指輪を財布から取り出し、自分の指にはめた。
 第1波が引いたのは、波が押し寄せてから約30分後の午後4時ごろ。強烈な引き波が、さらに悲劇を招いた。
 運びきれなかった患者が電動ベッドごと海に向かって流される。「見るなーっ」。誰かが叫ぶ。
 「目の前に患者がいるのに何もできない」。内科医菅野武さん(31)は無力感と絶望感を感じていた。
 対策本部で事務職員後藤正博さん(48)は、妻の看護師弘美さん(46)がいないことに気付き青ざめる。「うそだべ」
 水位は4階で膝ぐらいまでに下がっていた。「ひろみーっ、ひろみ!」。東棟屋上から4階に下り、妻の姿を必死に探した。妻は見つからない。病室で生きている患者を発見し、「誰か下りてきてくれ」と声を張り上げた。
 内科医の菅野さんも周囲の看護師らに呼び掛けた。「今だったら行ける。患者を見殺しにしたくない」。泥水に漬かりながら、生存者を捜しに4階へ下りた。
 「先生、ここにいます!」。看護師が声を上げる。逆さまになったベッド。引きちぎられた医療器具。病室の惨状は津波の猛威を物語っていたが、それでも天井までは達していなかった。うめき声が響く中、患者10人ほどを救い出した。
 「おーい、ここにいるぞ、歩けないんだ」。408号室で助けを求めた西城さんも救出された。
 後藤さんの妻弘美さんは今も行方不明。ほかに看護師1人、看護助手1人が犠牲になった。

●救った命、失った命…/「すべて受け止めきれぬ」

 避難者と患者、医療スタッフであふれる西棟5階会議室の対策本部。42人の入院患者は段ボールの上に寝かせた。スタッフはぬれた衣服を脱がせ、カーテンや新聞紙でとにかく暖めるが、患者の震えは止まらない。
 「苦しい、寒い。どうにかして」「酸素、酸素…」。外は雪が降る寒さ。患者7人が次々と息を引き取った。医療機器はない。波をかぶった患者は低体温や窒息による低酸素で亡くなったとみられる。菅野さんは「酸素、点滴、電気があれば…」と唇をかむ。
 看護師たちは「頑張りましょうね」と声を掛け、患者のそばに寄り添って暖め続けながら夜明けを待つしかなかった。
 診療エックス線技師らと患者の救助に当たった院長職務代理桜田正寿さん(54)は、津波が引いた後の胸中をこう振り返る。「救った患者がいても、失った患者が数多くいるという現実。安堵(あんど)感なんて、ちっともなかった」
 自衛隊の救助ヘリが屋上に到着したのは翌12日の昼すぎ。患者を石巻赤十字病院に繰り返し搬送したが、すべての患者を運びきれず、残った患者と医療スタッフはさらに一晩を会議室で過ごした。
 最後の患者数人を搬送し終えたのは、3月13日の午前中。患者とともにヘリに乗り込んだ菅野さんは病院を眼下に見た時、こみ上げる感情とともに涙が流れた。
 「患者を運び終えたということ、そして自分が生きていること、今まであった街が打ち砕かれてなくなっていること。すべてが入り交じり、すべてを受け止めきれない奇妙な感情だった」=2011年6月7日河北新報
          ◆         ◆         ◆
 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 6年の節目に際し、被災者の「証言」を集めた一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201702/20170216_13065.html

Leave a Reply

WP-SpamFree by Pole Position Marketing