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2度目の南三陸町

06.12.2011 · Posted in 震災復興

●学校が始まった後の子どもたち

6月6日~7日と、震災後、2度目の宮城県南三陸町戸倉地区に訪れた。
戸倉地区にあった戸倉小は流され、戸倉中は津波の被害で使用できず、子どもたちは、隣の登米市の廃校になっていた小学校の校舎を「戸倉小中学校」として借受け、そこに通学している。この校舎を借りることが決まった後、通学1時間を心配した保護者は、戸倉の避難所から登米市の避難所に移った家族もいるが、戸倉地区に住む子達は、スクールバスで1時間強をかけて毎日通学している。

GW明けから学校が始まった。当初は、バスの窓から見る風景に怖がる子もいたり、車酔いで吐いてしまう子もいた。小学校高学年でおねしょをしたり、母親のそばから離れない子もいる。お母さんたちは心配していたが、毎日通うことに慣れてくると、子どもたちは友達に会うのが楽しみになり、今のところ順調そうだ。

戸倉の高台から見る町。正面の白い建物が、戸倉小学校。津波のとき、この高台に避難して戸倉小学校の子どもたちは全員助かった。

戸倉の高台にも津波は押し寄せ、家を流した。この高台の反対側には、まだこんな状態。

小児科医の話によると、子どもたちは、震災後の混乱時は、忙しそうな大人に負担をかけまいと我慢をして、普通に笑ったり遊んだりしていいるが、学校が始まり、通常の毎日に戻るころに、いろいろな症状が出るのだという。子どもは自分の心を言葉でうまく表現できない分、言動や体調に出る。男の子は行動面に、女の子は身体の変調に出ることが多いという。

今後、子どもの心のケアは継続して行う必要があるが、子どもが安定するためには、母親たちのメンタルケアも必要。子どもの様子をうかがう際に、不安定な心の状態の大人たちが増えてきているというのを聞いて、なにか支援できる方法がないかというのが、今回の目的だった。

●避難所から仮設住宅へ〜募る不満

学校が始まるに伴い、学校の避難所は閉鎖され、そこで暮らしていた人たちは、仮設住宅に移った人も多い。
広い場所でプライバシーが守られない避難所より、独立した部屋である仮設住宅に移れば、多少落ち着いてくるのではないかと思われていたが違った。

まず、仮設で暮らすには、自立しないといけない。救援物資をわけてもらえないので、毎日の食費は自腹。今まで救援物資の炊き出しでは、限られた食材でそれなりに工夫された食事だったが、仮設での暮らしでは、切り詰めないといけないので、必然的に質素になってしまう。

仮設住宅は、2DK、3K、1Kの3タイプ。地区によって施設が違う。提供するハウスメーカーが違うからだ。そのため、「こっちはボロい。あっちの仮設が良かった」「仮設なんて、移らなければ良かった」という不満が出ている。

プライバシーのない避難所では、人格者だった人、人当たりの良かった人が、家族単位の個室での暮らしを始め、人が変わったように怒鳴ったり短気になったり、今までおさえていたストレスを発散させてしまう人もいる。そのため、小さなトラブル、人の噂に敏感になる人も。逆に、人との関わりが減り、引きこもってしまう人、思いつめたように人を寄せ付けない人もいる。交流が減り、孤立化してしまっているのだ。

支援物資について、仮設の住民に個別に渡せないが、仮設住民が自治会をつくり、その代表者となら話し合いができると、町の職員は提案した。町の職員も仮設住民の暮らしをなんとかしたいと思っている。避難所の物資を、半壊や孤立しか戸建てに住む人が取りに来た場合は渡しているため、仮設住民にとっては、なぜ、自分たちだけもらえないんだという半ば怒りにも似た気持ちだろうが、町で決められたルールを簡単に破ることはできない。

その問題を少しでも解決するために、仮設に住む人を集めて説明会を開いたが、不満と文句ばかりで、自治会をつくろうという動きはなかった。リーダーになる人がいなかったのだそうだ。誰も、自分のことで精一杯なのに、これ以上大変なことを背負うのは嫌だという気持ちなのだろう。

学校側には自衛隊の車が停まっている。自衛隊の車両と仮設住宅(右側)にはさまれたグランドで、体育の授業を行う志津川中の生徒たち。

●メンタルケアには、東北のメンタリティがわかる人を

仮設住宅で自立を迫られている状態で、具合が悪くなったり、持病が悪化したりしても、交通手段がなく経済面に不安があれば、病院に行けない。お子さんを亡くされたお母さんが、真っ青な顔をして歩いているのを見て、周りの人はとても心配していた。が、声さえもかけられない。医療関係者が、常駐していないため、どこにどう相談したらいいかわからない。病院に行くのをすすめたとしても、本人が行く気にならない限り難しい。医療関係者の常駐がベストだが、避難所に常駐していた医療支援団体はGW頃に数人を残して引き上げ、現在は健康相談に1〜2人いることはいるが、相談にくるのを待つ態勢だそうだ。

以前、常駐していた医療支援のメンバーは、ただ待っているだけでなく、避難者のなかに飛び込んでいって、会話しながら人間関係をつくり、人々の状況を積極的に把握していたという。行政は、相談窓口を設けたり、誰か派遣した人間を配置すればいいと思っているが、将来も見えず様々な問題を抱えている被災者は、相談すべき問題を明確にして優先順位を出せる人は、極少数。頭は混乱し、何からどのように手をつけていっていいかわからない人がほとんど。そんな状態なので、世間話から問題や悩みを整理し、本人に気づかせて、自ら動くきっかけを作る人がとても重要なのだ。

避難所の職員も、「以前ここにいた医療ボランティアさんは、どんどん被災者の中に入って声をかけていた。ああいうふうにしないと、ただ相談窓口の設置だけじゃ、ダメなんですよ」と。

「どのような支援が必要ですか。もちろん、医療関係者を常駐させるのが一番。ですが、医療関係者ではない、我々NPOなんかは、ボランティアと交流する場を設けたり、楽しくなるようなイベントを開催したり、何か皆さんが元気になるのを支援したいのですが…」

「イベントはダメ。誰も行きません。暮らしに余裕がないのに、よそ者が急にきて騒いで…というふうにしか見られません。ずっと一緒にいて関係をつくらないと難しいですね」。

外部の人間には、その土地の常識や普通の感覚がわからない。物資の供給や片付け、瓦礫処理など物理的な支援は誰でもできるが、心身の健康面の支援は難しい。それでなくても、入れ替わりくるボランティアとのやりとりに気を遣う人もたくさんいると思う。こちらがいくら支援したいと思っていても、そこにいる人たちが必要としない限り、外部の人間はいなくてもいいのだ。

世間話をしていても、東京じゃ「そんなのおかしい」ということでも、「こちらでは普通なんですよ」といわれる。大きなストレスが長期間続いていて、冷静な状態ではないので、些細なことでトラブルになる。悪口や噂話などに耳を傾けてみると、誰かを傷つけてもみんな必死で自分を守ろうとしているための言動なんだと理解できるものもあり、誰も責められるものでもない。みんなギリギリのところで平静を保っている。そのなかのコミュニティのルールがあるので、外部の人間が口出しできるものとそうでないものがある。

セブンイレブンのあった場所に来た移動セブンイレブン車。車内では、おにぎり、飲み物、お菓子など、外ではタバコがズラッと(左)。現金を引き出せるATMには、警備のお兄さんが常駐(右)。

阪神大震災のときに実家が被災した。私自身は、すぐに実家に行けなかったが、実家の両親や友達や知人にリアルタイムに話を聞いて、物資を送る支援や、一時期、友人がうちに滞在したこともあった。そのとき聞いた話は、家がなくなり避難所暮らしでも、ぶっちゃけ話をする関西人にたくましさを感じた。避難所でのエピソードは、東京で聞くと、かなりエグイ話なのだが、関西人が話すと笑い話のように聞こえる。合理主義、誰にどう思われようが自分は自分、言いたいことを言う気質。関西人全員がそういう人ばかりではないが、私の周りには、そういう人が多かった。もちろん、今回の東日本大震災とは規模も違うし、原発事故もあるため単純に比較できないが、物事の捉え方や考え方に土地柄が色濃く出るため、復興の道のりにもそれが大きく影響する印象をもった。

この状況をふまえて、仙台の医療関係者に相談した。その話のなかで、「東北の人は、”我慢が美徳”、”本音と建前をきっちり使い分ける”、”余所者排除”の気質があるからね。治療のアプローチは、関西人や東京の人と同じというわけにはいかない部分も多い」というのを聞いた。

一方で、仙台で会った人には、「遠くから私たちのために活動してくれることに感謝します。忘れないで、思ってくれるだけでうれしい」と言われた。口先だけで具体性に欠けるのは、なかなか評価しないのが関西人。そんな関西人の私にとって「思ってくれるだけで、うれしい」という感覚はちょっとピンとこない(私だけ?)。形に表さなくても、相手を思うという静かな気持ちのつながりを大事にするやさしさが、東北の人の根底に流れる気質なのかもしれない。
ボランティアに大阪からきた親子。南三陸でボランティアする人に配布される、ユニフォームの背中の「おでってさ、来ました」とは、「お手伝いに来ました」の意味。

その土地には、代々受け継がれた歴史と環境に育まれたメンタリティがある。そこを理解し(理解するのは難しいとしても)、違いがあることを前提に連携や支援をしないといけないことを身を持って感じた。

●経済復興への指標は…

町は4月に行った時よりも、かなり片付いた印象だった。更地部分が増え、ビルの階上や屋上に津波が連れてきた車の一部は、おろされていた。


高台にある志津川中学校からみる町。上は4月11日、下は6月7日。

車が無事だった人や調達できた人は、仙台などで仕事をして週末戻るという生活を始めていたが、漁業や養殖などが主な産業だったこの町の多くの人はいまだ仕事がない。そんな人たちのために、漁協が、海岸の片付けに、町の人に日当を支払って雇用していた。町の人の手によって町を片付け、一刻も早い再建を、ということだろうが、実際は早く片付けてしまうと、日当が得られないという心理が働くのか、仕事のペースは遅い。片付けのためのボランティアも入っているが、そのエリアとの境界線は明確で、漁協のエリアをボランティアが片付けようものなら、いざこざが起きる・・・という話も聞いた。町の復興の道筋が見えないなかでは、そういう心理が働いても無理はないと思う。

大人ひとり一台車を持っていた町で、車がないと移動も仕事もできない。今、車庫証明の必要のない軽自動車が売れすぎて不足しているというのも聞いた。車が必要なんだと、中古車を売りに来た人がいたらしいが、1台30万円でも売れなかったらしい。その背景には、現金がないという現実もあるが、Twitterやネットで車が欲しいと書いて実際にもらった人もいるから、支援物資としてもらえるかもしれないという漠然とした期待などもあるのだという。

一回目の義援金が配布され、次の義援金まで待つという消極的な暮らし。復興は進んではいるが、あまりにも被害が大きいため、どれくらいかかるか検討もつかない不安。心身ともにギリギリな暮らしだけれど、病気や弱虫だと思われたくないために、「私は元気ですよ」と口では言う。でも実際は、いろいろな話をして共感できる関係になれば、「心が折れそうになる」という本音も聞かれた。

津波で流された場所には、家は建てられない。じゃ、どこに家を建てるのか? 町の復興のためのグランドデザインもまだはっきりとしない。一刻も早い復興を願いつつ、実生活ではさまざまな感情や矛盾を抱える人たちに、できるだけ、寄り添った支援をしたいと思う。

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