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命は平等ではない。死なせる優先順位

02.09.2015 · Posted in 医療全般

しごく真っ当な意見。

昔は、自然な寿命があり、それで均衡がとれていた。

それを医療技術の発展と医療機関の金儲けのために、不要な医療がはびこり、不自然な延命、そのために死ななくてもいい人が亡くなる。

「建前としての“命は平等”というのはもう外してもいいのかな。現実問題、すでに平等じゃない。
救命センターの研修医時代、パンク寸前で受け入れ制限せざるをえなくなったとき、指導医はこう指示しました。労災は受ける、自殺は断る、暴走族の“自爆”は断る、子供は無条件に受け入れると。僕もそれを正しいと思った。現実的に命に上下は存在すると思っている」

命が平等ではないというのは語弊があるかもしれないが、助ける優先順位はあると思う。

●「能率的に死なせる社会」が必要になる 
建て前としての”命の平等”は外すべき

http://toyokeizai.net/articles/-/59971

自己決定の尊重という大原則が医療現場を、そして患者本人をも縛っている。人間の死と日々向き合う医師がただす大いなる矛盾と、逡巡の先に到達した着地点。『医師の一分』を書いた里見清一氏に聞く。

──20年前はタブーだったがんの告知。今はもう当たり前ですね。

1990年、横浜の病院勤務時に、「さすがに言わなきゃいけねえよな」と部長が肺がん患者に告知しました。当時その病院で告知したのは僕らだけ。全員に言うか言わないかどっちかなら、全員に言おうと。同じ抗がん剤打ってれば、告知してない患者にもいずれはバレる。

一点の風穴が開くと、告知は一気に広まった。それが2000年くらい。今では面と向かって「あと3カ月です」と言う医者もいる。極めて厳しい膵臓(すいぞう)がんなど、昔はどう話そうか悩んだものだけど、今はあまり悩まなくなった。医者のパターナリズム(父親的温情主義)が否定され、“患者のために”医者が決定しちゃいけなくて、全部患者の自己決定に任せよということになってる。
「医者は自分で責任を負わねばならない」

──自分で決めろと言われても。

困るでしょ。患者が「先生にお任せします」と言うと、今日びの医者は「お任せされても困ります」と突き返す。手術しろって言うならするけど成功率は20%、あなたの人生なんだから自分で決めて、というのは、さすがにどうよと思うんです。

フランツ・インゲルフィンガーという食道がんの権威がいまして、30年前自身が食道がんになったとき、患者に自己決定を押し付けるのはやっぱり違うと痛感した。彼は第一人者だから誰より情報を持っている、でも決められない。結局、有能な同僚にすべてを任せました。彼は遺稿の中で「医者は自分で責任を負わねばならない。患者に負わせてはいけない。自分の経験を駆使して具体策を提示しようとしない医者はドクターの称号に値しない」と書きました。

自己決定の尊重というのは医者の逃げ口上としてはラクなんですよ。手術が失敗しても、お気の毒でした、でも私は事前に失敗の確率を申し上げましたよね、って言える。

──里見さんは、患者の自己決定を信じない、と明言されてますね。

本人の意思なんてどんどん変わります。それに決められます? 自分が決めたことだからどうなろうと自分の責任、悔いはない、と笑って死んでいく人なんて現実にはいない。「やっぱりあのとき、手術はよしましょう、と先生に言ってほしかった」って言われるんです。自分で決めたことでも、やっぱり後悔しますわね。

僕はよく患者さんに「じゃあその治療で行きますけど、それは僕が決めたことだからね」と言います。僕もOKして決めたことだから、悪化したら僕も責任を持って次の措置を考える、と。患者が選んだ治療でも、結果オーライじゃなかったら謝って、次はこうしよう、とやっぱり医者が決めていくべきじゃないか。

──去年、米国で余命宣告された女性の安楽死が話題になりました。

あれは医者が、苦痛を取る薬ではなく自殺目的の薬を処方したのですから、医者の幇助(ほうじょ)による自殺です。

それじゃ日本ではどうしてるかというと、耐えがたい苦痛がある場合は眠らせて意識をなくしてしまう。その薬を一度やめて、目が覚めてもやっぱり苦しいならまた眠らせる。そうしてるうちに亡くなってしまう。二度と目が覚めないことを前提に眠らせる行為と、その段階で殺してしまうのとで何が違うかというと、あんまり違わないかもしれない。

──日本では対応能力が限られる中、今後高齢の死者が急増します。

命は平等かという問題について、私も揺れ動いてるところはあります。ただ建前としての“命は平等”というのはもう外してもいいのかな。現実問題、すでに平等じゃない。

救命センターの研修医時代、パンク寸前で受け入れ制限せざるをえなくなったとき、指導医はこう指示しました。労災は受ける、自殺は断る、暴走族の“自爆”は断る、子供は無条件に受け入れると。僕もそれを正しいと思った。現実的に命に上下は存在すると思っている。老衰の人に点滴して抗生物質使って、無理やり生かしてどうする? はたしてそれがいいんですかね? 貴重なベッドを老衰患者でずっと塞いでしまうことが。

──医学的な重症度以外に、社会的な価値も考慮に入れるべきだと?

実質的にはみんなそう思ってやっています。家族に「もう歳だからあきらめる」と言わせて、あくまで家族の選択として苦痛だけ取ってお見送りする。医者は患者の価値を決めちゃいけないと建前上なってるから、家族にそう言わせてるだけです。

90とか95の老人をさらに生かす見返りに、働き盛りの人にあきらめてもらうのは、やっぱりおかしいですよ。アル中で肝臓悪くした親父が子供や嫁さんからの肝臓移植を希望する。好き勝手した人間がそこまでして長生きしたいと言う。敏感な人が遠慮して身を引き、鈍感な人がのさばるなら、それはもう不公平でしょ。生きたいという意志を無条件で尊重しなきゃいけないかというと、できることとできないことがある。
「能率的に死なせる社会」が必要だ

──矛盾と疑問だらけの現実に、今後どう対処していくのでしょう。

僕が役人だったら、能率的に死なせる社会のことを考えますよ。だってそうしないと間に合わねえもん。

ただ現場の医者として、それは怖い。この患者はここまで治療すればOKという明確な方針で進めてしまうと、僕はナチスになりかねない。自分はがん専門だからまだラクで、慢性腎不全なんか診てる同僚は大変ですよ。90歳で判断能力もない患者を押さえ付けて透析して点滴して、もう10年やってるから今さらやめるわけにはいかない、家族も決められない。今日び医者は訴えられるのが怖いから、逃げにかかって延命措置をする。

──結局、誰かがどこかで線を引く日が来るのでしょうか。

誰か考えてるんですかね? たぶん左右両極端には行けず、宙ぶらりんのまま状況見て、多少右へ左へってことをやっていくんだと思う。それとも何とかなっちゃうんですかね。今では孤独死を、それでもいいと思う人が増えてるように、日比谷公園で一晩に3人5人死ぬことに慣れちゃって、そんなもんだと思うようになれば、キャパうんぬんも何もどうとかなっちゃうのかもしれない。

仮に医者が安楽死させるなら、良心の呵責(かしゃく)に苦しみながらやるべき。自分を守るためにガイドラインを作れ、法律で決めてくれというのは違うんじゃねえかな。今の国会議員に僕は人の命なんか決めてほしくねえや。結局、今そこで患者を診ている医者が、引導を渡す役を引き受けるしかないんじゃないですかね。

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