客観的判断なしに、地方創生、新たな巻き返しや発展はのぞめない
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こういう「情緒的な意思決定」による失敗に対して、「人間だから仕方ないね」などと寛容な人が結構多くいます。つまり、誤った意思決定に対しての反省をしないので、間違いは何度も繰り返されます。
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おバカなリーダーのせいで、せっかく歴史を紡いできた町がダメになっていくのは本当に悲しいこと。
しかし、そのおバカなリーダーを選んだのは町の人の責任。
真剣に創生したければ、真剣に客観的にシビアに人選びも、立て直し案も、金の使い方も考えるはず。
それを怠ったら、当然ツケを払わないといけない。
バカは滅びるのは自然の流れ。自業自得。
地方だけでなく、中小企業も同じ。
地方は「好き嫌い」で物事を決めすぎる
「ゴマすりコンサルタント」採用も致命傷に
(東洋経済 2015年08月18日)http://toyokeizai.net/articles/-/80783
今回は、地方活性化の障害になる「トンデモ意思決定」(ひどい意思決定)がなぜ起きるのかについて、考えてみたいと思います。
この連載では、毎回のように地域活性化における問題点をとりあげていますが、中でも活性化の成否を決める意思決定にかかわる問題は、非常に重要です。
しかし、「なぜ地方は厳しい現実を直視できないのか」でも触れたとおり、実態は、人が減少しているのにもかかわらず、実効性のないバラ色の計画が平気で立てられていたりします。
また、巨大な商業再開発を行ったり、財政が厳しいといいながら豪華な庁舎を建て替えたり、交付金でプレミアム商品券を配ったら東京資本のチェーン店に流れて終わったり・・。このように、後からみれば「なんでこんなひどい計画を」と思えるような馬鹿げた話が多発しています。
誤った意思決定には、必ず「好き嫌い」があるもちろん、新国立競技場のケースでもわかるとおり、こうしたトンデモ意思決定は国や大企業でも常に起こっています。では、なぜこんなことが多発するのでしょうか。結局、論理的な意思決定よりも、情緒的な意思決定がいまだに尊重される土壌があるからです。これは大都市よりも地方で起こりやすい。地方では、地縁や血縁がどうしても濃くなりがちだからです。
私が商店街活性化の取り組みにかかわってから最も驚いたことの一つは、「あいつの爺さんは、ウチの店の邪魔をした」といったような、「世代をまたがった恨みつらみ」を受け継いでいたりすることです。個人的に因縁としてもっているならまだしも、公的な立場で利害を調整する役割が期待される商店会長などが、個人的な人の好き嫌いで意思決定を変えてしまいます。これには、かなり驚いたものです。
地域の取り組みにおいて、物事を見るのではなく、発言をした人の好き嫌いによって「良し悪し」を判断するところがあるのです。
(中略)
では、こうした暴走を止めるにはどうしたらいいのでしょうか。そのためには、地域活性化のプランについて、定量的議論の機会と、柔軟性の確保について「初期段階」で確認するのが大切です。
どういうことでしょうか。人間が取り組むのだから、情緒性を完全に排除することは困難かもしれません。しかし、せめて論理的・定量的な議論を定期的に行うだけでも、かなり暴走は止められます。活性化にかかわる関係者が出すそれぞれの意見も、単に感想ではNGとし、数字をもとにした内容にするのです。また、出された意見も、数字で計算して検証してみれば、それが可能であるのか否かよくわかります。
例えば「図書館構想」を皆で議論してプランを練るとします。それを作るにはいくらの予算が必要で、維持費はどれだけかかるのか。1冊あたりの貸出コストはいくらで、1世帯あたりの負担はいくらなのか。施設維持費はいくらかかり、図書購入費はいくら程度になるのか。数字で見ていけば、議論の熟度は高まります。
このとき、勝手に情緒性を優先させて、希望的観測にもとづいて作為的な数字の作り方をしては全く意味がありません。ここはあえて批判的にやってみるというのが大切です。また、何事も一貫性よりも「柔軟性」を優先することを最初から確認しておくことです。初期段階から検討を進めていったほうが情報は集まり、分析も熟度が高まっていきますので、物事は変更されて当然なのです。
(中略)
こうした「定量的議論」と「柔軟性確保」のルール化は、どんなに取り決めておいても煙たく思う人は少なくありません。このルールをその都度確認して進めることは、マネジャー(計画のまとめ役)にとって、非常に孤独な作業になることもしばしばです。逆にいえば、地域でのプロジェクトを率いていく人材には、その孤独と向き合うことが必要だと言えます。
情緒に任せ、内輪受けで盛り上がりながら、プロジェクトが失敗しても単に傷を舐め合うだけの「仲良しクラブ」では、真に地域を変えることはできないのです。
たとえ自分個人が損をしたとしても、ダメなものにはダメとストップをかけ、修正するべきものは修正する。それが本当に故郷を愛することではないでしょうか。